2017年12月21日木曜日

神戸金史さんの講演を聞いてきました。。 ≪その弐≫



講演では、資料として用意された新聞記事の話しと共に、50分ほどの映像が放映されました。

それは記者の自閉症の息子の様子とともに、他に2人、少し重めの自閉症の子と、

少し軽めで働いている自閉症の成人をドキュメントしたもので、実際にTBS系列で放送されたものらしいです(動画で視聴可)。


約10分×全5回


その中で、重めの自閉症の子を育てていた母が、今は頑張るが、10年後も状況が変わらないようなら一緒にいく、ということを目に涙を浮かべながら語っていたのがとても印象に残りました。

50分の映像が終わった後に、神戸氏はある図をかきだした。

それは自分の息子と映像の中に登場した少し重めの子と、軽度の方をグラフのように配して線でつないだ図でした。

障害の重い人から健常者までいろんな人がおり、そのどこかで障害を持つ人とそうでない人の‘線’を引く必要がある。

それは社会福祉を受けるために便宜上必要であるが、そのような線は絶対的なものではないのではないか、という問いかけでした。

誰でも年老いていけば限りなく障害者の方に近づいていく。つまりあらゆる人が障害者になりうるし、障害の方に向かって進んでい

障害者にやさしい社会をつくるというのは、高齢者に優しい社会をつくることであり、

それは住みやすい社会をつくることだと述べていました。私もその通りだと思います。

また線を引くということは必要であるが、線を引くことと、差別は別だということでした。

差別は区別したものに価値判断をし、劣ったものを排除しようとする動きです。神戸さんは現在あるヘイトスピーチのようなものとも戦っているということでした。


線を引くことに関して、これは私も常々考えてきたテーマでした。

線を引くというのは、切ること、分けることであり、それは分かることにも繋がっている。あるものごとと、そうでないことの違いが分かるということである。

サイエンス(science)の語源はスキーレというラテン語に由来する。それは切る、知るという意味である。科学の‘科’という字も科目の‘科’であり、それは分けることで、科学、学問の初めは分類、分けることにあった。

私はナチスの思想が当時科学の最先端であったドイツで生じたというのは決して偶然ではなかったと思う。

あれほど科学が進歩しているのに、ではなく科学が進歩しているからこそ、そういう思想を生む機運が高まっていたと考えるべきではないかと思う。

私たちはものごとを切る、知ることによって文明を発達させてきたが、その行きつく先に人間の分類、そして優劣をつけ劣ったものを排除するという社会が現出したと考える。その線の引き方というのは、時代により異なるし、地域によっても異なる。

私たちはナチスや植松容疑者の行ったことをおぞましい行為だと思うであろう。しかし私たちは人間と非人間の線を意識の上でひいて、同じことをしていないだろうか。

たとえば胎児に関して21週までは堕胎が法律的に認められており、障害児である可能性がある場合、そこで合法的に中絶することが出来る。では21週以前の胎児は人間ではないと言い切れるのだろうか。

それは便宜上引いている人間と非人間の線であって、時代や地域が違えばそれは犯罪になりうるし、

天の視点から見たらもしかするとナチスと同じレベルの大罪にあたるのかもしれない。それは分からない。日本では年間数十万人の胎児が中絶されている。

また誕生だけでなく死に関してもそのラインをどこにするのか臓器移植の問題と関連して喧々諤々の議論がなされた。


境界線のあやふやさに関して、ひとつ身近な例を挙げてみたい。数学で海岸線問題というのがある。ある島の周囲がある辞典には100km、別の辞典には200kmと書いてあり、それに疑問をもった学者が調べてみたのだ。

すると実は両方とも正解でありかつ間違いであったのである。

それはどういうことかというと、海岸線をどの長さの定規で測るかによって長さが変わってきてしまうのである。

例えば1mの定規と30cmの定規では凸凹の長さを測定した時にその長さが変わってきてしまう。

つまり海岸線はその細部を拡大すれば拡大するほど緻密な構造が出てきて、小さい定規で測れば図るほど距離は無限に長くなっていくのである。

すなわち当然長さが決まっているだろうと思われる島の周囲の長さというのも実は測定不能なのだ(詳しく知りたい方はフラクタル図形について調べてみると良い)。

このように身近な海岸線のようなものに関しても実はものすごくあやふやであり、そういったあやふやなもの対して人間は分かったつもりになってものごとをとらえている

きちんとした長さがあると思っている海岸線の長さも実はあやふやであり、またものごとの境界も実は人間が意識の上でひいている仮想のものであって、確固としたラインが自然界に存在している訳ではない

私たちは植松容疑者の行った行為をおぞましい非道なものであると感じる。それは、私たちが一般にとり決め、合意している人間と非人間の線を自分勝手に書きかえ、それを行動に移したからだと私は感じる。

しかしそのような行為は、また時代や地域が異なれば称賛されうる可能性があり、また日本においては何十万の胎児が合法的に中絶されている現状がある。

それらを考えると私は個人的には植松容疑者を頭から否定すること、声高に悪がなされたと非難することに抵抗を感じる。

かつてキリストは、罪を犯した女性を非難する周りの人たちに対して、罪のないものから彼女に石を投げるがよい、と語ったが、私はまさにその言葉を思い出す。

自分の属する日本の社会で合法的に堕胎のような制度が認められながら、植松容疑者のやった行為を一方的に非難することに抵抗を感じてしまうのだ。

では私たちはどうすべきか。

まず人間は意識の上で線引きを行うということ。

そして、その線は時や場所によって容易に変更されうるということ。

そしてその線引きをして‘外’と認識したものに対して、人は無感覚に相当残虐なことをなしうるということ。

この3点をよく自覚しておく必要があるのではないかということである。

線引きをどうするかはその都度社会でよく話し合われなければならないし、いま既にある線引きに対しても当然のものとして無思考になるのではなく、常に目を開いているべきであり、また時にその線引きは正しいのかどうかを考えてみる必要があるということである。


また講演の中では、相模原事件の被害者の匿名についての話題が出た。神戸氏によると、匿名というのはたいへんに恐ろしいことなのだそうである。

というのも戦前は逮捕されたときに、誰が逮捕されたのか、その名前が公表されなかったという。それは権力者にとってはとても都合の良い事で、それによって好き勝手にどんどん逮捕し、拷問が行われたという。

現在すべての名前を公表するというのは、そういった戦前の反省からきているのだそうである。

名前を公表することの副作用もあるが、公表することと発表の仕方を考えるというのはまた別のことで、もしこれが匿名でも良いという風潮になったとすると、それはとても危険だと述べていた。

私は、なんでも公表してしまうことに疑問を感じてきたが、とても腑に落ちる説明を初めて聞き、さすが元新聞記者だと感じた。


つづく、、



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