2012年6月28日木曜日
心の要とは、、
前回、体の要(かなめ)という題でブログを書きましたが、
それを書いている最中にそれでは心の要(かなめ)となるものは何だろうという思いが湧きました。
それは間違いなく、想念の習慣であるといえるでしょう。
これに関しては、最近たいへん感銘かつ影響を受けた本をご紹介することから始めましょう。
著者は高橋信次という方で、宗教家です。(といっても自身は会社経営者で、宗教でお金をとることを戒めています)
この方はもう35年以上前に亡くなっている方ですが、その生前に説いた教えは未だに燦然と輝いています。
私はこの方に関してはまったく存じ上げていませんでしたが、ある方から面白いよ、と紹介され読んでみました。
彼は、数々の奇跡的な現象を見せただけでなく、
その単純明快な教えは、私が今まで学び体験してきた数々のこととまったく合致する事であるとともに、
さらにその上をいくものでありました。
彼の本を読んだことで、私はこれまでしてきたことにも少し変更を加えることが出来、とても感謝してます。
彼の説くもっとも根本的な教えは、私達が日常抱く心の習慣についてです。
憎しみや嫉妬、怒りや執着など、ネガティヴな想念を抱くことなく、
常に思いやりや優しさ、感謝の念を抱くことが大切であると説いています。
いたってまともであるとともに、とても難しいことでもあります。
心で邪なことを抱くことは、それを現実にすることと同じであるということをキリストは語っていますが、
まさにそういうことのようです。
高橋氏は、特に宗教的なことをしていたわけではありませんが、
小さいころから幽体離脱などを体験し、もうひとりの自分というのはなんのなのか、ということに興味を持っていたそうです。
仕事としては、電気関連の会社を自ら興して経営していたのですが、そんな彼にあることがきっかけとなって心眼が開かれ、
自分の過去生を完璧に思い出す他に、向こうの世界がどうなっているのか、
また人を見た場合でもその人の健康の状態がレントゲンを見るようにわかってしまったり、
また今で言うスピリチュアルカウンセラーのように、
その人の過去生から、現在の何が影響してそのような状態にあるかまでつぶさに“見る”ことができたそうです。
彼によると、向こうの世界では、魂だけの存在になるので、想念自体が行為であるそうです。
こちらの世界では、物質の世界であるがゆえに、ある想念を抱いても、その結果が現われるまで時差がありますが、
向こうでは抱いた想念が即座に行為となるのだそうです。
また私達が怒りや妬み、執着などの邪な想念を抱くと、
それが向こうの世界の対応する境涯にいる存在を引き寄せ、俗に言う憑依ということが起こるのだそうです。
彼が“見る”ところによると、病の多くは、このような憑依によるものだそうです。
よくお祓いなど憑き物をとるということが行われたりしますが、あれは一時しのぎでまったくのナンセンスなことだそうです。
結局はそのような存在を磁石のように引き寄せている自分自身の想念を改めないことには、まったく意味がないそうで、
一時的にそのような存在が離れたとしても、次にはもっと強力な物がつく可能性もあるそうです。
逆に、想念を常に思いやりや感謝の気持ちで満たしていると、向こうの世界の善なる存在の援助を受けられ、
また向こうの世界とこちらの世界を隔てているモヤのような想念帯が晴れて、向こうの世界を見通すことが出来るようになるのだとも言っています。
高橋氏は、かつてブッダが説いた八正道こそ正しい方法であると説いています。
そしてその中でも特に重要なのが想念、正しい思いなのだそうです。
正しい行為、正しい言葉もすべて心の中にある思いが現われたものだからです。
また高橋氏は、釈迦の説いた瞑想とは本来、自らを反省するものであったと言っています。
何も考えずに無念無想で座るのではなく、自らの一日が八正道にかなったものであったかどうかを静かに内省すること、
これが瞑想なのだそうです。
自らの想念の習慣を正すことなく、心を空っぽにして瞑想などすると、
類は友を呼ぶの法則の如く、そのような存在の憑依をうけるので、極めて危険だといっています。
私はこの反省という視点を読んで、ギリシアのヒーラー、ダスカロスを思い出しました。
彼も小さいころから数々の奇跡を起こした人ですが、生涯公務員としてすごし、公表されることを拒んだ人物です。
彼の教え、というよりある存在から告げられたこととして7つの約束というものがあるのですが、
その中に、自らの行為が神の法則に適うものであったか、毎晩反省する時間を設けるというものがあるのです。
ダスカロス
http://www.daskalos.jp/
ダスカロス:7つの約束
http://www.daskalos.jp/201researcher/217promise.html
毎日の想念の習慣、そして反省の視点をもつこと、これは本当に大切にしていきたいと思います。
最近気づいたことなのですが、前に禊について、
禊には、水によるものの他、太陽、そして笑いがあるということを書いている人がいると紹介しましたが、
最近感銘を受けた本 ≪その②≫ (松田隆智、ラム・ダス)
http://mshiko.blogspot.jp/2011/07/blog-post_19.html
もっとも強力な禊はおそらく、心に感謝の気持ちを抱くことだと感じます。
あらゆること、すべての存在に無条件に感謝の気持ちを向けると、本当に心が洗われます。
これは水や太陽、笑いといった物質的な禊をはるかに凌駕しています。
どのようなことに対しても、感謝や思いやりの念をもつという視点で色々な教えを見ていくと、
やはりこの正しい想念を抱くことが基礎であり核心であるように思います。
例えば、キリストの逸話として
右の頬を打たれたら左の頬をだしなさい
というのが有名です。
ルカ 6-27~29
わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
マタイ 5-8、39、44
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい
わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
これは、自分に嫌な事をするひとがいたとしても、その人たちに対して悪意を抱くのではなく、
逆に彼らに思いやりの気持ちを抱くようにしなさい、ということを説いているのではないかと思います。
その極端な例えとして、たとえ頬を叩かれたとしても、、
ということを語ったのだと思います。
そういう視点で見ると、
自分の身に起こるあらゆる現象は自分のステップアップの材料として利用することができるということがわかります。
今まで嫌だと思っていた諸々のことも、実はそれらに対して感謝や祝福の念を抱く練習の場となり、
つまづきの石と感じていたものは、実は自分を高めるための階段となっていくのです。
逆風と感じてきたものも、自らを上昇させるための風として利用するということなのです。
私たちは、常に選択の場にいるのです。
嫌な事があったら、それに対して恨み、つらみの念を抱くのが普通なのかもしれません。
でもスピリチュアルな観点からすると、ここにおける選択は自らの魂にとって雲泥の差を生みます。
かつて当ブログでも紹介した雷に2度打たれたことのある臨死体験者、ダニオン・ブリンクリー氏も語っていたことですが、
この世とあの世の関係、もっというなら、
この世での行為、想念が向こうでどのような結果を生むかに関する知識があまりに教えられていないことがとても残念であります。
どうしてこのようなことが人間の基本的な教えとして教育されないのか、それはとても危険であるとも感じます。
想念に関して、我々は何を考えようがそれは自由ですが、
その因果に関して何も教えないのは、赤子にナイフやけん銃を好きなように持たせているようなものです。
因果の結果を知るのが死んでからというのは、あまりにもったいなすぎます。
実際、向こうの世界を見通すことのできる人たちにとっては、これは共通の思いのようです。
私は高橋信次氏の本を紹介されたので、まずは地元の図書館で検索してみました。
何冊かあったので「心の発見」(全3巻)から読み始めたのですが、
凄すぎて、凄すぎて、深夜すぎまで一気に読んでしまいました。
自分が今までに気づき、考え、実行してきたことと重なることが多く、
また更に、新たな視点を得られ、自らの日常生活でどのような点に注意すべきかのヒントを得ることができました。
読了後、このような本に出会えたことに心から感謝するとともに、心が洗われた気がしました。
彼は、自ら48歳で亡くなることを生前述べてたそうですが、その言葉通り48歳という若さで亡くなりました。
人の価値は、人生の長さではないといわれますが、あまりに惜しいことだと思います。
スピリチュアルな事に興味のある方は、是非高橋信次氏の本を一読されることをオススメ致します。
すべてに感謝であります。
参考:
≪アマゾン≫
心の発見 (神理篇)
高橋信次氏の著作
高橋信次 (宗教家) - Wikipedia
ダスカロス エソテリック・ティーチング―キリストの内なる智恵 秘儀的な教え
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4931449956/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4931449956&linkCode=as2&tag=mshikon-22
ダスカロスに関する本
2012年6月18日月曜日
体の要(かなめ)・・・腰
私は朝夕、食事の前に運動することがだいたい日課となっているのですが、
最近調子をこいてというか、新しい動きを模索して、
いままでにやらない腹筋運動を試してみたところ、腰痛になってしまいました。
いままでにやらない腹筋運動を試してみたところ、腰痛になってしまいました。
今まではずっと、腹筋はチベット体操の第二(仰向けになって足を垂直にあげる運動)と、
膝を曲げつつ上体を起こす腹筋運動がメインだったのですが、(ともに20回強)
膝を曲げつつ上体を起こす腹筋運動がメインだったのですが、(ともに20回強)
体をVの字に曲げる腹筋を試みてみたのです。
腰痛になって即座にその腹筋はやめたのですが、その間、日常生活の中で常に腰痛がつきまといました。
その時に気づいたのが、腰はまさに体の要(かなめ)だということです。
漢字で肉月に要とはよく書いたものです。
漢字で肉月に要とはよく書いたものです。
あらゆる動作で起点となる個所であり、それゆえ常に負荷のかかりやすいポイントなのです。
従って、日常生活のなかで腰をVの字の頂点のようにしてつかうのではなく、Uの字のようにその箇所をまるく使う、
あるいは、ものを持つ時に腰を入れるように、頂点を持たないような体の動かし方をするのが正しいと感じました。
また腰痛になったおかげで、どの体勢、どのような姿勢がもっとも腰に負担になるかもよく分かりました。
なんせ少し負荷がかかると、イテテっとなるからです。まさに敏感なセンサー状態です。
洗面の姿勢や、ものを拾う姿勢、あとはくしゃみも腰に来ることが分かりました。
あとは座る姿勢も大切です。背筋を伸ばして座った方が、腰には負担がかからず、長時間作業しても疲れないようです。
私は京都で学生時代に旅館のアルバイトをずっとやっていました。
そこでは、お膳を8段、10段と積んで運ぶ仕事もあったのですが、
その時若気の至りで力まかせにエイヤっと持ち上げていたので、次第に腰に鈍痛を覚えるようになりました。
そんなとき、ちょうどNHKで今のためしてガッテンのような番組があり、
腰を痛めやすい職業の人たちが、如何にそうならないようにするかを放映していました。
秘訣は2点、
1、重いものを持つ時は、ちゃんと腰をいれること
(普段から腰の一点に負荷がかからないような姿勢を心掛ける)
でありました。
私はその番組を見て以来、動作の姿勢に気をつけ、腹筋、背筋を欠かさず続けてきました。10年、20年、、、?
お陰で腰痛とは無縁の生活を続けてこれたのであります。
しかしたまに今回のような、正しくないことをしてみることで、
如何に正しいことが大切さであるかを身にしみて実感したのであります。
如何に正しいことが大切さであるかを身にしみて実感したのであります。
結局、腰痛が完全にとれるまで3週間程かかりました。
その間も今まで続けてきた運動をやったのですが、その中でもあまり腰に良くない動きというのが分かりました。
それは柔軟運動です。
前屈や後屈も、腰を痛めている時にやるととてもよくないです。普段でも相当の負荷が掛っていたということがよく分かりました。
これからも腰に負担をかけない正しい動作と、腹筋・背筋は続けていこうと思ってます。
腹筋・背筋を鋼(?)のように鍛えておけば、それがコルセットのような役割を果たし、腰(脊柱)に負担をかけずに済みます。
あともう一か所、腰と同様に痛めやすいのが、膝であります。
こちらも同様に、負荷を掛け過ぎると痛めやすい個所ですが、
前にとりあげた片足立ちなどを毎日することで、筋肉で関節を固め、こちらも予防できるようです。
前にとりあげた片足立ちなどを毎日することで、筋肉で関節を固め、こちらも予防できるようです。
体が痛いと、何をするのも億劫になってきます。
体が資本といいますが、健康を害してはじめて本当にそうだと気付かされます。
体をいたわりつつ、体に感謝しつつ、よきメンテナンスを心掛け、
これからも体と良好な関係を保っていきたいと、今回の腰痛を通して思いました。
おしまい
参考:
彦兵衛のブログ:
Let's 片足立ち! ≪ロコモティヴシンドローム対策≫
http://mshiko.blogspot.jp/2009/10/lets.html
アマゾン:
5つのチベット体操──若さの泉・決定版
2012年6月15日金曜日
宮崎・阿蘇巡り ~最終回~
阿蘇の一日目は、やはり早朝のジョギングから!
走って10分くらいでいける阿蘇神社を訪れました。
肥後の一宮だけあって、つくりは立派です。
さすがに早朝は誰もいません。
阿蘇神社は昔から、神水と称される地下水がこんこん、というより、じゃばじゃばといった感じで湧いており、
その水を少し飲んでから、清々しい空気に満ちた境内を参拝しました。
その帰りの道に豆腐屋を発見しました。
豆の匠
http://www.office-web.jp/mamenotakumi/pc/contents15.html
豆の匠と自ら称しているということは相当美味いのでは、、、
と思い朝食時に聞いてみると、ふだんそこの豆腐買うから今晩はそれを出そうという事になりました。
やった!
で本日の予定は、まず阿蘇神社のことをロバートさんに話すと、是非見てみたいという事で、
まずはともに歩いて阿蘇神社へ。
彼は私とまた違う視点で神社をみるので、
こんなとこもあったのか、こんなものもあるのか、などと新しい発見がいっぱいありました。
違う視点をもった人と一緒に行動するって勉強になりますね。
さてここからおばさんの運転で阿蘇山の火口へ!
煙もくもくでも、下のエメラルド色の水がよく見えました。
係の人の説明によると、昨日は風向きが悪くここまで近寄ることが出来なかったそうな。
こちらは火口の周辺↓
火口から下のロープウェイを望む↓
火口の展望所から火口付近に群がる人たちを一望できる↓
手前のトーチカみたいなのは、緊急の避難所。
緊急時には、手前のランプが点灯するものと思われます。
こちらは、帰る途中の中腹にある草千里とよばれるところ。
ずっと平原が続いていて、馬に乗れたりします。
牛も方々で放牧されています。
阿蘇神社、火口、草千里とひと通り阿蘇観光の目玉をみた我々は、昼時になったので阿蘇の道の駅に行きました。
そこでそれぞれ好きな弁当を購入して食べました。
ロバートさんは和食系の弁当を躊躇することなく選び、箸で食べていました。
ここでも箸のレクチャーが行われたのですが、すごく上達しており、近くに座っていた中年夫婦が、
この方はどちらから?日本長いの?
などと聞いてくるので、アメリカの人で日本に来てまだ1週間位だと説明すると目をまん丸にしていました。
箸の使い方うまいね~、、、と。
でも本当に、数回教えただけでうまく使えるようになってしまうというのは、スゴイです。
彼は阿蘇のあとは、臼杵の大仏と高崎山のモンキーパーク、
佐賀の吉野ヶ里遺跡、島原半島、熊本市内で宮本武蔵由来の地など、
この先1週間くらいで訪問したい所がたくさんあったので、昨晩調べておいた昼過ぎの電車で大分に向かうことになりました。
別れ際にはちゃんとメルアドの交換しておきました!
旅を終えてから来たメールによると、その後すべての目的地を回れたとの事、ただ、ただ グレートです。
アメリカの諺に、車を走らせてからガソリンを探せ!
なるものがあるらしいのですが、まずは行動!
というその勢い、バイタリティは見習うべきものだなと感じました。
さて、ロバートさんを見送った後、
叔母と私は、地元の人たちが主催する外輪山の散策ツアーに参加しました。
普段ひとの入れないような所を特別に入らせて頂き、どのような植物、生き物がいるかを調査するものです。
あたりはいちめん緑、また緑です。
結局、3時間くらい歩きました。
私も生き物は色々見つけましたが、こんな山中でトノサマガエルがいたのには驚きました。
(他の人たちも私のつかまえたトノサマガエルをみてびっくり、、、)
その後、下山していくと、美しい水田の風景が、、、。
帰りは、ちょうど国造神社の付近をとおるということで、
昔、昔、自分が小学生の頃、今は亡き叔父が連れていってくれて、
ちょーー美味しかった川魚の店まだやっているか寄ってみることにしました。
国造神社のすぐ手前を左に入ると、その店はまだありました!!
阿蘇淡水魚センター
http://itp.ne.jp/shop/KN4300060600131088/
釣り堀があって、そこで釣ったものを調理してくれるのです。
あー、そうだ、こんなとこだった。
でも小さい時にはとても大きく感じたコンクリートで固めた釣り堀の池も、
すごく小さく見えました。
そこで今夜のおかずにヤマメやアユなどの焼き魚、揚げたもの、南蛮漬けを買いました。
といっても注文してから調理するまで時間がかかるので(まずは泳いでいるやつをつかまえなければならないので)
いったん家に帰って、おばさんに再度取りに行って頂きました。
(帰り道に見えた阿蘇山↓)
長い道のりをお手数をお掛けしました。
有難うございます。
m(_ _)m
この魚、いずれも一匹数百円なのですが、やはり記憶の通り、激ウマでした。
実は今回の阿蘇の旅は、ここの魚をなんとしても再び食べたい、というのが一つの大きな目的だったのです!
店がまだやっていることも確かめられ、また祖母も含めて皆で魚を美味しく食べられて良かったです。
夕方から両親も合流しての大人数での夕食となりました。
食卓には、豪華な数々の魚と共に、豆の匠の豆腐もありました。
これが味が濃厚。
豆の甘みを感じることが出来て、こちらもメチャウマでした。
さすが、匠を自称するだけのことは有ります。
イイ豆を厳選して、丹精をこめて作っているというのはあるのでしょうが、
近くでこんこん(じゃばじゃば)と湧きでる阿蘇の名水があることも美味しい豆腐ができる一つの要因だと思いました。
翌日、これまた私のわがままで「美味しい蕎麦が食べたーい」、ということで皆で波野にある蕎麦屋に行きました。
味はふつうだったかな、、、。
祖母は蕎麦のだご汁なるものを注文しました。これは蕎麦が団子のようにしてはいっているものなのですが、
麺が入っていない、としきりに探していました(笑)。
そば処 岩戸開 神楽苑
http://r.tabelog.com/kumamoto/A4302/A430201/43001013/dtlmenu/
そんな、こんなで、宮崎、阿蘇巡りは、半分グルメの旅のような感じで終わりました。
昼過ぎのフライトで熊本空港から羽田へ!
私の席は翼の後ろだったのですが、翼の先端についたハートマークが目にとまりました。
思えば、心温まる数々の出逢いに満ちたいい旅でした。。。
羽田につくと、向こうの機体には、スペードが付いてました。
(なんなんでしょうかね、コレ)
こうして宮崎、阿蘇巡りは無事終わったのであります。
めでたし、めでたし。
参考:
阿蘇淡水魚センター
http://itp.ne.jp/shop/KN4300060600131088/
豆の匠
http://www.office-web.jp/mamenotakumi/pc/contents15.html
阿蘇神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE
阿蘇 国造神社
http://www.yado.co.jp/kankou/kumamoto/aso/kokuzouj/index.htm
2012年6月10日日曜日
いざ北斎展! ~その弐~
先日の休みに、北斎展の後期の展示を見に行って参りました。
北斎展 後期:5/15-6/17
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/schedule.html
今回も前期に引き続き、印象に残った絵をアップしておきましょう。
見ていった順番に
「江都駿河町三井見世略図」↓
凧が舞っているということは、正月なのでしょうか。清冽な張りつめた空気の中にも風を感じます。
凧のひとつは鳥のような形をしています。青を基調とした中でこの凧が唯一赤で、北斎のいたずら心を感じます。
横の富士山と同じ形をした屋根の上では作業をしている人たちがいて、なんともユーモラスです。
富士を主体とした美しい風景と、人の動き、人工物が調和していて、北斎らしさを感じた作品でした。
「山下白雨」 (さんかはくう)↓
こちらの作品は一つの目玉として展示されていましたが、いまいちピンときませんでした。
右下の鋭い線は、カミナリを表しているそうです。快晴の山頂と下界の雷雨を対比させて描いたものだそうです。
「甲州石班澤」(こうしゅうかじかざわ)↓
この作品は有名で、みたことがありましたが、実物を見るとその迫力は段違いでした。
富士はゆるやかな曲線で描かれているのに対し、下の崖や波は荒々しいく描かれています。
そんななか、一人の漁師が網を引いているのです。崖と人と網の紐が富士山の形と相似形をなしています。
この青一色で描かれた世界には引き込まれるものがありました。
何がそんなに人を引き付けるんだろうか?
と、この絵を前にだいぶ思案したのですが、構図がいいのはもちろんあるのですが、
雄大で荒々しい自然を相手に、ひとり人が生きるために奮闘している姿に、
その生きる迫力みたいなもの伝わってくるのかな、などと思いました。
さてその近くにあった絵で気に行ったのがコチラ↓
「飛越の堺つりはし」↓
このシリーズには、実際にある橋やどこにあるのか特定できない、おそらく想像で描いたものもあるそうです。
私はこのつり橋のマンガチックなたわみ具合、そして背景の雄大な景色がいいなぁ~と感じました。
見ていると物語が湧き上がってくる気がします。これはまさにマンガの原点だな、と感じました。
前回も橋シリーズとして似たような絵がありました。
「足利行道山くものかけはし」↓
こちらもマンガチック、で見てて面白い絵でした。
他の橋シリーズとして気に入ったものは、
「すほうの国きんたいはし」↓
山口の岩国にある錦帯橋です。後ろにあんな富士山のような山が実際あるんでしょうか?
構図が美しいな、と感じました。
もうひとつ、橋シリーズとして印象に残ったのは、
「かうつけ佐野ふなはしの古」↓
船橋という地名がありますが、これは本当に船をこのようにして橋のようにつないだことから来ているんだろうな、
とこの絵をみて理解しました。(実際はどうか知りませんが)
橋シリーズの次に、百人一首を描いたコーナーがありました。
本来ならば、百枚あるべきなのでしょうが、
北斎が百人一首の歌に対して、あまりに独自の解釈で絵を描いたため途中で中止になったのだそうです。
私はその解説を読んで思わず笑ってしまいました。
その中でいいなぁ~と感じたのは、
「天智天皇」↓
秋の稲の刈入れの様子です。いかにも秋らしく、ほのぼのとした気分になります。
もう一つよかったのが、
「山邊の赤人」↓
田子の浦にうち出でてみれば白妙のふじのたかねに雪はふりつつ
この歌を絵にしたものです。
北斎の海の波というと、荒々しいものを想像しますが、
夕焼けの富士を背景に、この丸い穏やかな波もまたいいなぁ~と感じました。
百人一首の中で、一緒にいった友人イチオシの作品がコチラ
「権中納言定家」↓
私は特に印象に残らなかったのですが、
よく見ると、構図とか、人の動きなどが面白いです。
これは海水をやいて塩を作っている場面だそうです。
今回も瀧シリーズがあったのですが、印象に残ったものをひとつあげるならコチラ、
「下野黒髪山きりふりの滝」↓
樹の根っこのようにうねる水の筋が生命感にあふれていて、
題名のようにみているこちらまで水のしぶきが飛んできそうな圧倒的な迫力がありました。
以上が今回印象に残った絵でしたが、、、
HPにアップするにあたって北斎の画像を検索をしていたら、またまたスゴイ絵に遭遇してしまいました↓
「鳳凰図屏風」
どうやら、これは下の屏風の一部のようです↓
北斎は猛禽類を描くのが得意だったそうで、
試しに北斎、鳳凰で検索してみたら、他にも鳳凰図がいくつか出てきました。
構図の大胆さ、色使いの美しさ、細部の緻密さ
北斎はやはり天才だな、と感じました。
今回も美術館のはしごをして、この後ブリジストン美術館を見てきたのですが、
西洋美術を見て、北斎のデザインの洗練された美しさがより一層際立って感じられました。
また印象に残る展覧会などにいったら、画像をアップしたいと思います。
おしまーい
参考:
北斎展 後期:5/15-6/17
http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/schedule.html
ブリヂストン美術館:あなたに見せたい絵があります。
http://www.bridgestone-museum.gr.jp/
彦兵衛のブログ:いざ北斎展へ!http://mshiko.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html
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