2009年11月11日水曜日

遊び



立花隆氏がまとめた臨死体験についての本の中で、




日本における事例のもっとも深い体験をした人として、彗星探索家の木内鶴彦氏が取り上げられています。




木内氏がご自身の体験をまとめた本は二冊あり、どちらで述べられていた事か忘れましたが、

自分があの世の体験をしているときに、すべてが自由であるとともに、

自由であり過ぎてつまらない世界であるとも感じたといったニュアンスのことが述べられていました。

おそらく、あちらの世界というのは、そういうところなんだろうと思います。


私は、インドや南米などを何ヶ月か旅行してるときに、しょうちゅう飛行機や電車、バスなどを長い時間待たされることがありました。

たとえば、インドのニューデリー発の電車が朝の6時だからと30分前についてみると、発車は5時間後の11時に変更になっていたとか、

安い飛行機の乗り付きで、半日、一日と空港内ですごさなければならないことなどもありました。

そういう何もすることがない時に何をするか、、、

というとクロスワードパズルや数独などのパズルといったものをやるのです。

そのときふと思ったのです。

やることがなくてつまらないのでわざわざ自ら"問題"を持ち込んで取り組むというのは、考えてみたら滑稽だなぁと。

もしかしたらこれって人生の縮図なのではないか、、と。

人生にはそれぞれの人が様々な問題を抱えていますが、大きな視点から見ると、

こういった諸々の問題も、実は大いなる暇つぶしのためにわざわざ自分から敢えて仕組んだものとしてとらえることができるのではないか、と。

私たちは生まれる前に、ある程度今回の人生ではどういう経路をたどるかということを見ることが出来るらしいのですが、

ということは、究極的には、わたしたちが現在抱えている問題も、クロスワードパズルなどの問題と同じように、

自分でセッティングした問題="遊び"なのではないか、と思ったのです。

だから今何か問題を抱えているとしても、そんなに深刻に考えることもないのではないか、と思うのです。


インドには、この世を、大いなる夢、光の戯れ、シバ神の踊り、マーヤ(幻)などととらえる見方がありますが、

臨死体験者たちが死の直後自らの死を振り返ったとき、まさに大いなる夢だったことに気づかされるのだといいます。

私たちはおそらく、究極的にはこちらの世界で"遊ぶ"ために来ているのではないかと私は思うのです。

だから、ブッダのように"目が覚めた"ひとが正しく、

現世という夢の中で"遊び"に没頭しているひとが間違っているということは、言えないのではないかと思うのです。

ブッダのような人は真の自由を勝ち得た人といえると思います。

人は自由を欲するといういい方がされますが、

おそらく、人は全き自由より、ほどよい制限を欲していると見る方が正しいように思います。

ほどよい制限があった方が心地良いのです。

映画マトリックスの中で、サイファーというひとが、これが真実だったなら私はマトリックスの中に居た方が良かった、

自分を目覚めさせないでいて欲しかったと言っていますが、この発言は一考の価値があると思うのです。


つづく、、、



参考:

≪アマゾン≫

木内鶴彦氏の著作

立花隆氏の臨死体験関連著作




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