2009年8月31日月曜日

今回の選挙について思ったこと



衆議院議員選挙は民主の圧勝で終わりました。

それはいいとして、私が心配したのは投票率でした。

台風が接近していて、選挙当日は風がかなり強く、時おり雨もパラついていました。

多くのひとは台風の中、投票に行くのだろうか、、、?

この大風で雨も降ったら投票率ガタ落ちだろうな、、、。

などと心配していました。

しかしなんとか天気ももち、結果的に投票率も最高の七割くらいに達したようです。


私はブログに書いたように期日前投票を済ませました。

それは今回のように天候も含めて当日に何があるか分からないからです。

期日前投票自体は投票日に特に用事が無くとも、

受付にある紙に適当に、レジャーのためとか、仕事のためとかの欄にチェックを入れるだけで誰でもできるのです。

ということで、実際は投票日というより、投票期間が10日ぐらい設けてあるという感じになっているのです。

今回の選挙では期日前投票に行ったひとが、全体の20%、1400万人ぐらいに達したそうです。

投票率が下がると、既存の勢力が勝つ傾向にあり、民意が反映されにくく、政治が変わっていかないのです。

ということで私は結構周りの人たちには、期日前投票っていう便利な制度があるよ~、と広めているのです。

(場所や時間帯はハガキに記載されています)

自分の好きな日の好きな時間帯に行けて、たいていすいているので、選挙当日に行くより断然スムーズに済みます。

投票率が上がらないと、政治は変わっていきませんからね。

もし身近なひとで、期日前投票を知らないひとがいたら是非教えてあげてくださいね~。

( ^_^)b



おしまい

2009年8月30日日曜日

エコな調理器具



前回紹介した湯豆腐の作り方は、火を止めて調理しているという点でエコな調理法でもあります。

ガッテンではその他にも、エコでかつ手を抜けておいしくなる調理法をいろいろと紹介していますが

対決!ガッテンVSエコ 極ウマ!手抜き調理術


もっとも有効なのは、普段からエコな調理器具を使う事だと思います。


①シャトルシェフ

シャトルシェフ は使っていて便利だなぁーと実感する調理器具です。





煮物など加熱した後、容器に入れて置いて放置しておくだけでできてしまうのです。

その他に、スパゲティーの麺や麦茶なども沸騰させてから容器に入れて置くだけで出来上がりです。

ホントこれはエコだし、手間がいらないから使い勝手があります。

今はカラフルなものも色々と出てるようですね。

実は、わざわざシャトルシェフを買わなくても、鍋を加熱後、毛布などにくるんでおけば、同じようなことができるのです。



②圧力なべ

これは主に玄米を炊くときに使ってますが、15分の加熱でご飯が炊けてしまうというのはナカナカ頼りになります。

他に魚をこれで調理すると、骨まで食べられるようになって、グッドです。

私は米と魚を一つの圧力なべで調理するので、手間が省けて助かってます。

前にここで書いたように、私は北インドのダラムサーラというところに住んでいたことがありましたが、

そこは標高2400mぐらいのところだったので、ごはんは圧力なべ(プレッシャー・クッカーといっていました)で焚いていました。

余談ですが、インドの米は1キロ100円前後でめちゃくちゃ安いのはいいのですが、たまに米に交じって小石が入っているのです。

洗う時によく注意していてもどうしても取りきれず(とくに白っぽい石)、ごはんを食べながらガリッとよく石を噛んでいました。

そういう点で、米に石が交じっていないということが当たり前の日本のコメはホント有難いです。


インドから帰ってきて、

そういえば、地表でも調理に圧力なべ使えば、時間の短縮とエネルギーの節約になるのでは、、、と思って導入しました。

昔は圧力なべというとかなりゴッツクて、重くて、危険、というイメージでしたが、

現在では色々と改良されていてとても使いやすくなっています。

私が使っているのは、

ワンダー・シェフ

というものですが、お手頃な値段で、安全がよく考慮されており、かつ軽くて使いやすいのが気に入って買いました。





ステンレスの真ん中にアルミの層を挟むことで、軽量化と耐久性の両方を実現させているという優れモノです。

これがドイツ製とかになると、無骨でオモイ、オモイ。

デザインはカッチョイイのもありますが、調理しながら上腕二頭筋鍛えてるのか!?ってぐらいの代物なので、日本人にはちょっと、、という感じです。


③ソーラー・クッカー

とでもいうのでしょうか。太陽熱調理機で、これは究極のエコ調理機器といえるでしょう。

太陽熱調理機

これはパラボラアンテナと同じ原理です。



二次曲線(放物線)を回転させてできた曲面は、軸に沿って入ってくるものを焦点の一点に反射させる性質がありますが、

その原理を利用して、反射面を金属の板などで加工し、曲面に太陽光を反射させ、一点に集光させるのです。

原理的には虫眼鏡の逆で、後ろで光を反射させ一点に集中させます。

これを初めてみたのは、ネパールのチベット寺院ででした。

僧院の庭で、赤い僧服をまとった年配のお坊さんが、パラボラアンテナのデカイやつのまえに大なべを置いて、ぐつぐつスープを煮ていたのです。

鍋を触らしてもらったところ、アツッ、となってしまいました。

沸騰しているということは、当然中は100度ですよね。

でも、ガスも電気もないので、つい太陽熱だけでそれほど熱くなるというのが実感がわかなかったんです。

でもこれって、超エコだな、、、と感じました。

晴れてさえいれば、お湯が沸かせるんだから。

チベット寺院とこのバカデカイパラボラアンテナの形をしたソーラークッカーが、

なんかとてもマッチしているようで、どこか未来の世界の一場面をみているような錯覚を覚えました。

原理は簡単なのでいつか自分でも作ってみたいなぁ~という想いはあるのですが、いまだ実現していません。

焦点が本当に一点になるようにするには、正確に二次曲線による曲面をつくる必要がありますが、

要はなべの大きさに集光すればいいので、直径10cmぐらいに光が集まるようにすればいいのではないかと思います。

これで、シャトルシェフや圧力なべを加熱すれば、超々エコロジカルクッキングになります。

いつか是非実現させてみたいと思っています。






ソーラー・スパーク・ライター
http://www.uside.net/lighter/


近未来の発電↓

http://gizmodo.com/5347119/what-is-this


2009年8月29日土曜日

湯豆腐は4分!



日本の食卓に欠かせないものとして豆腐があります。

豆腐には色々な調理法がありますが、

豆腐そのものの味を堪能するならやはり湯豆腐ということになるでしょうか。


前にためしてガッテンで湯豆腐のおいしい作りかたというものをやっていました。

http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/recipe/recipe.cgi?r_id=R20080604_19


それによると、お湯を沸騰させた後、火を止め、豆腐を投入し5分というものでした。

これによって、スーパーの100円の豆腐も京都の老舗で味わう湯豆腐の味と同じになるとのこと。

番組内で、タレントさんがその湯豆腐を食べてびっくりしている表情が印象的でした。

私も湯豆腐をするときは、これを実践していて、

確かに豆腐をぐらぐら煮ちゃっていた以前よりは格段においしくなったのですが、びっくりするほどのおいしさというほどではありませんでした。

番組では、豆腐の中があまりあつくなっていないぐらいがちょうどいいといっていたのですが、5分たつと結構中までアツアツになっているのです。

う~ん、どうしてかな、とおもったのですが、よく自分のしていることを考えてみると、

豆腐を投入⇒タイマー、タイマーといって5分にセット⇒タイマーが鳴る⇒いまやっている盛り付けなどを済ませてから豆腐を救出

こうすると、実は5分と思っていたのが5分以上たっちゃっていたのです。

それでは4分にしてみてはどうか?

とやってみたのですが、4分後(正確には4分30秒後ぐらいか?)に救出した豆腐は

本当に抜群においしくなっていてビックリしました。

たんぱく質は変質すると味がかわってしまうので、1分とかの差ってかなり大きいようです。

次回からも、タイマーは4分にセットし、タイマーが鳴ったらすべてを投げ出して豆腐を救い出すことを最優先にすることを誓った秋の夕暮れでした。

(まだ夏か、、、)



おしまい



2009年8月27日木曜日

自閉症だった私へ ~その2~



彼女は自閉症だったため、人と目を合わせない、触られるのを極度に嫌う、人のいった言葉を何度も繰り返すなど、

言動がふつうのこどもと違ったため、幼少期より母親からことばや肉体による虐待をずっと受け続けていたそうです。

バカだ、キチガイだと罵られ、壁に血が出るほど頭を叩きつけられこともあったそうです。

しかしそのような虐待の描写も、自閉症であった彼女にすると極めて無機的な体験で、肉体的な暴力によって自らが傷つくことはなかったのだそうです。

彼女が「あとがき」で書いているのですが、このような本がでるほど彼女が自分を客観化できるようになったのは、実は母親の虐待があったからだそうです。

様々な虐待によって、彼女は自らを防衛するために自分の中に、様々なキャラクターをつくり、場面によって演じ分けるようなことをするのですが、

そのような強いキャラクターたちが育っていったおかげで、自分が強くたくましくなれたのだそうで、

逆に障害に理解のあるやさしい親だったら、ここまで自分を奮い立たせて成長できなかったと述べています。

しかし本人が述べているように、これは極めてまれな例で、自閉症児にはちゃんと理解のある適切な接し方をすべきであると付け加えていました。

本の最後の方で、彼女が自閉症児の子らの集いに誘われる話が描かれているのですが、

自閉症の小さな女の子に対して、「専門家」といわれる人が、子どもと同じようにヒステリックになって注意し、むやみに人形を与えて、静かにさせようとしているシーンがありました。

彼女はそれを見て、自分がやるから、と自らの経験に基づいた自閉症児にあわせた接し方をするのですが、

そうすると子どもは次第に落ち着いてきて、自分で自分をコントロールできるようになっていくのです。

このシーンはとても感動的でした。

と同時に、ふつうの人にはまず無理だと感じました。何をどのように気をつけるべきかということが、自閉症の体験を知らない人にはおよそ見当もつかないようなことなのです。

本の他のシーンで、自閉症児が書いた絵を「専門家」がまったく見当違いの解説しているものを読んで、彼女が笑ってしまったということが書いてあるのですが、

自閉症をもつひとの意識の世界は、常人には想像もつかない世界のようです。

そのような体験を理解できていない人が、自分の価値観にもとづいて自閉症の人に何かをしてあげる、というのは極力避けるべきだということを痛切に感じました。

たとえば、先の人形を与えるというのも、ふつうの子どもなら落ち着くだろうと親切心に基づいてなせれるわけですが、

人と接することに極度の恐怖を感じる自閉症児にとって、人形は恐怖の対象そのものらしいのです。

また、直接語りかけるのではなく、物を通して間接的にコミュニケーションをとると、パニックになることなく落ち着くのだそうで、通常の理解をまったく超えています。

自閉症というのはとても極端な意識のありようですが、私たちはだれも、多かれ、少なかれ、みな違うし、異なった価値観、感じ方をしています。

ということは、自閉症児ならずとも、自分が正しいと思っていることを単に押し付けるのではなく、

まずは相手を理解し、なるべくあるがままその人を理解しようとする態度が大事なのかな、と感じました。


彼女が体験してきた中で、凄いな、と思わせる描写が何箇所かありました。

それは彼女の心霊能力とでもいうのでしょうか、そのような能力をたびたび発揮している場面です。

友人の家に遊びに行ったときに、あるおじいさんの姿が見えるのですが、それは彼女にしか見えないのです。

容貌を説明すると、どうも会ったこともないその友人のおじいさんであるらしいのです。

その体験の三日後に、遠くに住んでいたそのおじいさんは亡くなるのです。

また夜寝ているときに、クラスメートがその時間に何をやっているのか詳細なイメージを見て、

翌日クラスでこのようなことをやっていたのではないかと聞くと、まったくその通りだったというようなことがあったそうです。

大きくなってからも、見たこともない男女と一緒にくらしているシーンを夢でみて、

それが何年後かに、家から部屋の様子から人物に至るまでまったく同じであることに気づく体験をしたと述べています。

彼女はあとがきで、自閉症というのは、修行者が高度な黙想をしている状態に近いのではないかということを述べているのがとても印象的でした。

そのような意識の状態とともに、彼女の場合は、虐待などから、常に現実から乖離した状態にあり、

またこの肉体から出れたらという想いが強かったため、よりそのような能力を発揮したのではないか、と感じました。


最後に、感情の起伏が激しく、不安定な性格だった彼女が、自らの食物アレルギーのために食事を改善し、


その結果、彼女の性格もが変わってしまったという個所を引用しておきます。

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最初のクリニックでは、一連のブラインド・テストの結果、私には牛肉以外のあらゆる肉と、乳製品と卵と大豆製品と、じゃがいもとトマトととうもろこしにアレルギーが出ることがわかった。また六時間に及ぶ血糖検査も受け、深刻な低血糖症であることもわかった。

<中略>

わたしは、糖尿病用の食事をとらなければならないことになった。それまでは相当に糖分の多い生活をしていたようだ。そして三日間砂糖なしの食事をしていたために、激しい禁断症状に見舞われた。

<中略>

それから一年間、わたしは食事療法を続けた。そしてたんぱく質をはじめ、自分がアレルギーを起こす要素を含む食品を避け続けた。わたしが口にできるものといえば、そのほとんどすべてが、穀類を中心とした手作りのものだった。

食事療法を始めてから最初の数週間で、私が働いていた店の主人は、すっかり目を丸くした。わたしはお客さんたちに向かっておだやかに、辛抱強く話すようになっていた

たとえ、お客たちの方がいらいらしているような時でもだ。急激に気分が変わることもなくなり、それとともに、人とうまくやっていくことができるようになったのだ

時として浮かれて騒がしく、攻撃的にさえなっていたわたしが、はるかに物静かになり、温和ではにかみがちな人間になった

しかしそれでも、私の心の奥深くの情緒的な不安定とそこから起こる社会的なコミュニケーションの問題は、まだ、消えはしなかった。

わたしはおだやかで静かな人間になった。そして、そんな新しい自分にとまどった。まるで履き慣れない新しい靴に、足を入れたような気分だった。

p.211-213


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エドガー・ケイシーは、人は食と思考によって作られる、ということを述べていますが、

マクロビオティク にしろ、ルドルフ・シュタイナーにしろ、様々な精神的な指導者は、食と人間の心の関係を説いています。

ふつう食事といったら、栄養があるか、美味しいかどうかという観点だけで考えがちですが、


食が自らの心をも支配している可能性を考慮した上で、何を食べるかを決めるべきなのではないかと思うのです。

(だいぶ前にインドで活躍する日本人チベット医の食に関する話(
バラモンの菜食主義)を載せましたが、興味のある方はもう一度その箇所も読んでみてください。)


彼女の記述を読むと、やはり食と心のありようというのは密接な関係にあるのだろうことを強く感じます。

麻薬のような作用をもつ精製した白砂糖や、肉、乳製品の摂取は、健康な人においてもよく考えてみる必要があると私は思います。

また体に不調や病気がある人、心が不安定、あるいは彼女のように心に障害のある人たちには、食事療法も含めた全人的なアプローチが大切なのだろうと強く思います。

実際、彼女はこの食事の変化が一つの要因となって、自らのウチにつくった様々なキャラクターたちと折り合いをつけ、次第に感情をコントロールできるようになっていくのです。


さて、この本は彼女がヨーロッパに渡り、ロンドンで精神科医に自らの体験をつづったものを渡し、


それを出版することを薦められるところで終わっているのですが、(それが本書)

この本には続編がふたつあるようです。

ドナ・ウィリアムズの本

幸い市内の図書館には続編の二冊はあるようなので、順次借りていってみようと思っています。


光の速さにおける時間の進み方、極微な世界における素粒子の振る舞い、

そのような日常とはかけ離れた世界での出来ごとを知り、

そこで起こる「異常」な現象を日常の延長としてとらえる事が出来た時、人間の智が深まっていくわけですが、

人間の精神に関しても、それを真に理解しようとするには、やはり違うもの、「異常」なものが必要であり、

その「異常」なものを正常な心の機能の延長としてとらえることができたとき、私たちは自らの心をよりよく知ることができるのだと思います。

そういう意味で、自閉症のひとの意識の世界をつづった彼女の本は研究者のみならず、

私たち一人ひとりにとてっても、極めて教育的な価値をもったものであると私は思います。

続編の中で、彼女がどのように成長していくのか、また現実とどのように折り合いをつけていくようになるのか、これから読み進めていくのが楽しみであります。


おしまい



2009年8月26日水曜日

自閉症だった私へ



だいぶ前に図書館に何かの本を返しに行ったときに、本を返したその棚の二段下ぐらいに、


自閉症だったわたしへ







という本の背表紙が目に入りました。私には、その本がうっすらと光を放っているように、周りの本から際立って見えました。

「エッ、自閉症の人がかいた本?」

私はすぐに手に取ってパラパラと見てみました。

著者は外国の女性で、写真を見る限りとてもふつう、というより平均より美人の部類に入る方ではないかと思われる外見でした。

本の内容は、自閉症であった幼少期の自分がどのような意識の世界にいたかをつづったもので、ヨーロッパでベストセラーになった本だと書いてあります。



私はものすごく興味をかきたてられました。

映画レインマンでも描かれているように、自閉症の人は外界とのコミュニケーションがとれないのが一般的で、その内面を自ら文章にするなんて不可能だと思っていたからです。

自閉症である(あった)にも関わらず、それをどうやって自らの体験として文章にし得たのか、

またあのダスティンホフマンが演じているような自閉症の人から見た世界というのはどのようなものなのか、


そしてそれをどのように克服していったのか、ものすごく興味をそそられました。

ハードカバーのその本を開いてみると、かなり小さい字で、ページの二段にわたって文章がつづられています。

うーん、これは読むのはちょっとしんどいかも、、、

と思い、私はその本を書架に戻しました。

そのとき他にも読む本がたくさんあったので、とりあえずそんな本があったということだけ記憶にとどめ、図書館を後にしました。


さて先日「カリノハカセ」さんがウチにいらっしゃったときに、私はその話をふってみました。


するとさすが障害児教育を専門とされているだけあって、すぐに答えが返ってきました。

その本は、自閉症の人が自らの内面を綴った画期的な書で、

それまで「正常」な意識をもったひとたちが、自閉症の人たちを外部からみて書いた本はたくさんあったが、

この本によって自閉症の人の内面が理解されるようになり、自閉症への研究が進んだのだという。

またこの本がきっかけとなって、日本でも自閉症の人たちが本をだすようになったのだそうです。


ああやっぱ、そうだったんだぁ~。背表紙がなんか光って見えたのは、それだけの本だということだったんだぁと妙に納得してしまった。

私は「カリノハカセ」さんのことばの後押しもあって、自分の読む本が一段落した時点で先日借りてきて読んでみました。

凄すぎました。あまりの迫力に、ある時など10時過ぎに風呂に入って読み始めたら、気づくと1時をまわっていました。足の裏がふやけていました(笑)


自閉症児の目を通して、世界がどのように見えているのかがすごくよく伝わってきました。

自分の腕が視界の中の物のように見ていたり、人が話す声は人とは切り離された音声として認識されていたり、

そういう意識のありようがあるのかと、とても驚くことばかりでした。




つづく、、、


参考:

ドナ ウィリアムズ (著), Donna Williams (原著), 河野 万里子 (翻訳)
自閉症だったわたしへ
新潮社 (1993/10)

2009年8月23日日曜日

期日前投票に行って、帰りにヨモギ餅を買ってきた話



本日、衆議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。

期日前投票自体は19日からできたのですが、裁判官の国民審査はなぜだか23日からしかできないので、今日まとめてしてきました。


朝10時に市役所7階まで行って(当然階段で!)、ささっと用紙に必要事項を記入し、小選挙区と比例代表、国民審査の投票をしておしまい。

結局国民審査の方は、ひとつも×はつけませんでしたが、、、。

来ている人も少なかったので、あっけないほどすぐ終わりました。


何日か前に、NHKから電話があり、今回の選挙に関する世論調査にご協力くださいというでした。

結構幾つもの項目があり、全部解答するのに5分ぐらいかかったと思います。

この結果が公表されるのはいつなのでしょうか。少し楽しみだなぁ~。

「今回の調査では、有権者何千人に無作為で電話し、有効回答率~%、、、」

とかいう報道がされるのでしょう。自分がその中の一人だと思うと、なんだかちょっとワクワクしちゃいます。


期日前投票に行って少し気になったのが、来ている人が日曜日にも関わらず少なかったのと、階段を上っている人が私だけだったという点でした。

ガッテンなどをみて、普段からエレベーターやエスカレーターを使わず階段を使う人ってどのくらいの割合なのだろう。

こういう意識調査をしてみても結構面白いなと思います。

駅などでも、エスカレーターと階段が併設されているところでは、階段はガラガラなのに、9割方の人はエスカレーターに乗ろうと列を作っています。

このように、何かしてもらうのをじっと待っている様子を見ていると、

私は前に書いた花火事故で人に誘導してもらえば安全だと思っている人たちを思い起こします。

私はエスカレーターやエレベーターを使うことのデメリット、

たとえば将棋倒し、機械に手足を巻き込まれる、停電によって閉じ込められる、、などなどを考えると、

できるだけ運動にもなる階段を使うことを基本にしています。

しかしこのような諸々のことを考えて敢えて階段をゆく人は、私の見る限り極めて少ないように感じます。

たまに駅やスーパーなどで、機械仕掛けには目もくれず、背筋をぴっと伸ばし、

黙々と階段を上っていく高齢者(いや、あえてツワモノと呼ばせて頂きましょう)などを見かけると、

同志よ!


と心の中でエールを送りのでありました。


さて、帰りがけに、最近発見した和菓子屋さんに寄ってヨモギ餅と桜もちを買ってきました。

私はヨモギ餅に目がなく、各地に出かけて行ってヨモギ餅を見かけると、つい買ってしまうのですが、

私のヨモギ餅人生において、第一位はなんといっても、奈良の
談山神社に行ったときに近くで売っていたヨモギ餅なのであります。

これは本当にダントツにうまかった。奈良であの場所なので、おそらく昔からある老舗なのでしょう。

あの味は後にも先にも、あそこで食べたのが最後でした。

しかし最近、その味にかなり迫る勢いのヨモギ餅を発見し、興奮のあまり泡をふいてしまいました(ウソです)。それが今回帰りがけに寄ってきた和菓子屋さんです。

それは、駅の近くの金券ショップで1割引きの切手を買って出たときでした。

斜め前に、和菓子屋さんが目に入りました。

何年も、何年も通ってきた道でしたが、そこに和菓子屋さんがあることに気がついたのは初めてでした。

あれ~、こんなところに和菓子屋さんがあったのかぁ~、、

と店頭に並べられている和菓子の数々を見ていると、私の好物のヨモギ餅が目に入りました。

深緑のいい色で、値段も一個75円ぐらいとかなりリーズナブル。

買っておくれやす、、、とかすかな声がその緑の餅から聞こえてきた気が、、、


これは試してみる価値がありそうだ、、とお茶受けとして買ってみたのでした。

家に帰り、さっそくひとくち、口に含ませると、、、

キターーー!


織田祐二ばりに雄たけびをあげてしまいました。

見た目がとても濃い緑をしていたのもそのはず、餅に含まれているヨモギの量がそこら辺で売っているへなちょこ餅とはケタ違いなのです。

ちぎれたヨモギの葉っぱが、餅の中でスイスイーと泳いでいるのが見えるのです。

その惜しげもなく大量に投入されたヨモギ葉から醸し出されるほろ苦さと、ミントのようなさわやかさが、口の中で甘い粒アンとともに雅楽を奏でているのです。

日本人に生まれてよかった~。そう実感するひと時であります。

古池や、蛙飛びこむ水の音

この句をきいて、ヒキガエルのようなものが何匹もボッチャン、ボッチャン池に飛び込む事しか想像できない外人さんたちには、とうてい理解できないであろう、ヨモギと米と小豆の奏でる和の極致なのであります。


灯台もと暮しとはよく言ったもので、こんな近くにこれほどのヨモギ餅を扱う店があったとは!!

私の中で、ここのヨモギ餅は、談山神社のヨモギ餅に次ぐ第二位の地位を獲得したのでありました。

(HPを見ると、添加物などは一切つかっていないとのこと、ますます気に入りました。)

立花
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~shouten/shop/sum10/sum10.html


こうして本日は、投票ヨモギ餅購入という本日の二大イベントを終え、セミの時雨の中、マイチャーリーに乗って帰途に就いたのでありしました。



おしまい


参考:

立花
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~shouten/shop/sum10/sum10.html


ここだぁ!(byグーグル・ストリート・ヴュー)
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF8&hl=ja&q=%E8%97%A4%E6%B2%A2%E5%B8%82%E8%97%A4%E6%B2%A2540&ll=35.340422,139.485254&spn=0.011202,0.017574&z=16&layer=c&cbll=35.340385,139.485356&panoid=L1LtBaRFPzNISHW9InNbJQ&cbp=12,355.18,,0,14.34

2009年8月21日金曜日

適正速度



世界陸上で、連日のようにウサイン・ボルト選手がワールドレコードを叩き出し、世界を驚かせています。

あの100m、200mの他を寄せ付けない圧倒的な速さは、とても同じ人類とは思えず、見ていてスカッとします。

ボルト選手の最高時速は40キロほどにもなるそうで、原付バイクならキップを切られる速度です。


しかし私が見ていて思うのは、社会があまりに頂点という一点に焦点を合わせ過ぎなのではないかという事です。

確かに世界で一番速いのは誰かを競うのは、とても興味をそそられることではあります。

しかし大半のひとにとって、あのようなスピードを追求する走りは必要なのかと問われれば、答えはノーです。

人類の99.9%以上の人にとって必要な運動は、如何に速く走るかではなく、

健康維持のため、死ぬまで寝たきりにならないために良い走り方であり、

それを生涯続けられるような自分にあった走り方、運動の仕方です。


学校でも運動といったら、すぐに競争やタイムを縮める事に焦点が行きがちですが、

あれは明治以来の富国強兵の思想の名残です。

あのような運動を教えていると、速いこと、他を出し抜く事がいいことだということを暗に教育しているようなものです。

しかし学校でこれから教える運動には、

大人になってからでもコンスタントに続けられ、死ぬまで寝たきりにならない、

健康を維持するための運動もあってしかるべきだと思うのです。


今の教育で教えられている運動は、その時にいい結果を出すためのもので、そのために無理して、逆に生涯にわたる故障を抱える事にもなっています。

長距離走にしても、如何に速く走るかではなく、ガッテンのスロージョギングのように、

エネルギー効率がよく、気持のいい走り方とは如何なるものか、そのようなフォームとはどのようなものか、

というところに焦点をあてた運動の教育があってもいいと思うのです。

10代、20代という人生のごく限られた一時期にのみ通用する運動を教えるのではなく、

人間は死ぬまで与えられた体と付き合い、それをメンテナンスしていかなければならないのだから、

そのメンテナンスに有効な各自で続けられる運動というものを教える体育があっていいと思うのです。


私たちは、100mという距離を全力で走ることも出来れば、鼻歌を歌いながら、景色を楽しみながら、たらたらと走ることもできます。

全力で走りきれば確かに速いですが、そんな走りは到底続かないし、また高い確率で体に故障を起こします。

しかし、鼻歌が歌えるぐらいの速度で走っても、いずれゴールに到着するし、

そのペースを体得すれば、いくらでも遠くまで無理なく行けるし、また過程自体を楽しむ事が出来ます。


いまの社会は、どことなく100mを全力に近い速度で走る、走らせるようなことを無自覚にやっているように思えます。

とにかく速いこと、他者に勝ることに価値があるという想いが、社会の根底にあるように感じます。

しかし一方で、そのひずみとしての過労死や自殺、アルコール中毒や薬物依存があるように思うのです。

このブログで紹介したかんてんぱぱの会長の塚越氏は、会社の成長にも正速度があり、速すぎるのはダメだといっています。

速さを追求した不自然な成長は、社会に様々な害悪をまき散らすことにもなり、

また結局はその速さがあだとなって自身を滅ぼすことにもつながりえます。


私はガッテンでやっていた、小幅で音をたてないジョギングというものをやってみて、

コリャ楽でイイワイと実感したのですが、

走りながら、どうして学校ではこういうことを教えないのだろう、、、と思ったのです。

運動も社会も、もっとゆっくりでいいんじゃない、、、と思うのであります。


おしまい





2009年8月19日水曜日

妹夫婦がやってきた



先日、二日間にわたって妹の
夫婦家族がきました。

子どもを三人(1才、2才、4才だったかな?)連れてきたのですが、まぁーよく動きまわる、騒ぐ、はしゃぐ、

食事の時もじっとできなくて、歩きまわる、食べ物を落とす、投げる、こぼすと、

自分も小さい頃はこんなだったのか、、、??となんか不思議な感じがしました。

「カリノハカセ」さんから頂いたミカンのジュースも出しましたが、人数が多いので1人分はちびっとになってしまいました。

トホホ、、、。でも子供が喜ぶ顔を見れて良かったです。


しかし子どもは、腹の底からケラケラと本当に楽しそうによく笑うなぁと思いました。

ホントささいなことでも、ケラケラ笑うのです。とてもうらやましいなぁと思いました。

また大人の視点からあまり面白そうでなさそうなことにも、すごく夢中になってよく遊ぶのです。

イマジネーションがとても豊かなのでしょう。

大人は成長するにつれ、そのようなイマジネーションを失って、凝り固まった思考しかできなくなっているんだなぁと感じました。

意識の焦点の位置が違うのでしょう。

逆に子どもたちは、私たちが「現実」としているところに焦点をあわせるのにまだ慣れていないという感じがしますが、

大人の方も、子どもから学ぶことは極めてたくさんあるように感じました。


二日目に、真ん中の二才の男の子と手をつないで、近くのビックカメラのおもちゃ売り場に行ったのですが、

普段見れないものを色々と見れて面白かったです。

彼は、機関車トーマスが好きだそうで、20種類ぐらいある色つき人面機関車の名前を色々教えてくれました。

またプラレールという電車のおもちゃは、実際に走っている電車と同じものを売っているんですね。

地元を走っている
江ノ電(二種類)や湘南カラーの東海道線などあって、少し感動しました。





江ノ電





東海道線



(横須賀線もあるなんて、シブすぎる、、、、)



二歳の彼は、誕生日のプレゼントに、古いタイプの江ノ電700系新幹線を買ってもらっていましたが、

私は個人的に戦闘機のようなフォルムの
500系がカッコイイんじゃない~~、と進めてみたのですが、

ボクはコレがいいのと、あえなく却下、まったく相手にされませんでした。




こうしてみるとちょっとカッコイイ



おもちゃ屋もたまにうろうろしてみると楽しいですね。

おじさんが一人で、ぶらぶらしてたらなんかアブナイ感じですが、

子どもが一緒だと、しょーがねーなーって感じを出しながら、

実は子供よりも興味津津で目を皿のようにして色々見れます。


いまのおもちゃは色々工夫されていて、すごいですね。

レゴのコーナーでは、

これスゴイヨォー、一つのセットで船と飛行機とヘリコプターになっちゃうんだってぇ~

LEGO 4995 レゴRクリエイター・カーゴヘリ



とか言いながら、自分が一番一所懸命になって説明書きに見入っていました。


たまに自分の感覚と違う人に触れ合うのって大切だな、、と痛感
した二日間でありました。



おしまい。


参考:


プラレール:

http://www.takaratomy.co.jp/products/plarail/index.htm

江ノ電プラレール:
http://www.enoden-net.com/goods/goods_pura.html

レゴ:

http://market.lego.com/ja-jp/Default.aspx

2009年8月16日日曜日

祭りの本質



文化人類学の本などを読むと、祭りの本質とは、価値の転倒にあるそうです。

日常生活の中には、倹約して生活しなければならない、怪我しないように気をつけなければならない、

無闇に大声を出してはならない、人前で裸になってはいけない、食べ物を粗末に扱ってはいけない、、、など諸々のルールがありますが、

祭りというのは、そのような日常生活の中で押し殺されてきた欲求が表現を許される時間と空間なのだそうです。


日本の夏祭りで、屋台で普段買わないものを買ったり、裸に近い恰好で神輿をかついで大声を出したり、水や泥をかけたり、

イタリアではトマトをなげあったり、

欧米でクリスマスの時期に普段しない寄付をしたり、バラバラに離れていた家族が集まったり、ハロウィンで悪魔的な仮装をしたりなど、

お祭りでは非日常の空間が出現します。

お祭りというのはこのようにある種の異常なエネルギーが噴出する場であり、

逆に言うと、価値が転倒していない場はお祭りとはいえないのです。

お祭りでたまに人が死にますが、それこそお祭りの本質なのであり、そのように命を粗末にすることはある程度許容されることなのです。

前に書いた諏訪御柱の祭りだって、日常の価値観で考えたら馬鹿げていますが、これこそお祭りなのです↓

御柱祭(Onbashira Festival)



こうしてみると、お祭りというのは、ある決まった日だけにあるわけでなく、ふつうの日の中にも、

日常、一般の価値が逆転した場としてのお祭り的な場があるように思います。

たとえばパチンコや競馬などのギャンブルの夜の盛り場なども、価値が逆転したある種のお祭り的な場であるといえるでしょう。


お祭りの本質とは価値が転倒する場であるので、その事を心の隅におき、健康や命、財産を失わないように注意しなければならない場でもあると思います。


何年か前にどこかで花火大会があり、その帰り道に歩道橋の中で人が詰まって死者が出ると言う事故がありました。

花火大会も祭りの一種であり、大げさではありますが見に行く人はやはりどこかで命を賭けて見に行くというぐらいの覚悟が必要だと私は思います。

あのニュースをみていると、誘導している警備員が悪い、警察が悪いということをしきりにいっていましたが、

私は責任の半分は当然参加者にあったと思います。

まず祭りに参加したという時点で、いつもとは違う危険を覚悟する必要があり、

帰り道でそのような群衆が集まってきている歩道橋に、自ら入っていったということは、半分は本人に責任があったと思います。

人がうまく誘導してくれなかったから事故になったというのは、言葉は悪いのですが家畜的な発想だと私は感じました。

羊や牛ならそういう権利がありますが、人間自らがそのような危険な場に歩を進めたということは、やはり半分は自分の責任であろうと私は思います。


私は、安心と安全は別だと思っています。

ついみんなと同じ事をやっていると安心しがちですが、それが安全だとは限らないのです。

これは人生のあらゆる場面に言える事で、だから常に個人の理性を働かして、その場その場で判断しなければならず、

時には安全のために、安易な安心に流されない勇気を持つ必要があると思います。


祭りの空間というのは、日常とは反転した価値が支配する場なので、

そこに参加する人は、常にどこかでそのことを心に留めておく必要があり、

そこに参加するのは、最終的には自己責任だろうと私は思うのです。







でも、祭りって見ているだけで、こちらもワクワクしてきていいなぁ~、と思います。

一年に何回かは、命を賭して(?)お祭りに参加するのって心の健康に必要なことなのかもしれないと思うのです。


おしまい




2009年8月15日土曜日

犬はスゴイ!



先日NHK教育の地球ドラマチックという番組で、


『イヌって天才!?』


という番組をやっていました。

これはアメリカのナショナル・ジオグラフィクが制作したもので、犬の天才的な能力を紹介するものでした。

その天才的な能力の一つは嗅覚

犬で嗅覚が優れているというのは当たり前、、、と思われるかもしれませんが、番組で紹介していた犬はまさにスーパードッグでした。

保護施設から引き取られ、警察犬として活躍するその犬は、普通の犬よりさらに嗅覚が良いらしく、

デモンストレーションとして犯人が撃った銃の薬きょうの臭いを嗅がせ、

その犯人が銃を使った現場から“”で逃走した経路をたどって最終的に、犯人を追いつめるところまでいってしまうのです。

いままで警察犬が犯人を追えるのは、徒歩だけだとおもっていたので、車に乗って逃走しても臭いを追跡できてしまうというのはまさに驚きでした。


また他に紹介されていた犬は、なんと人間の言葉を200種類ほど記憶しているらしく、

「あるものを持ってきて」というと、200種ほどある似たようなオモチャの中から、いわれたオモチャをちゃんともってくるのです。

しかも犬が知らないものを持ってきてといわれると、全部のアイテムを確認した後に、その中に混ざっている自分の知らないアイテムをこれではないかとくわえてもってくるのです。

これは子供がことばを覚えるときと同じで、消去法を使って物の名前を類推しているのだそうで、犬は私たちが思っている以上に相当賢いそうです。


私も犬を飼っていた事がありますが、犬はどこまで言葉を分かっているのだろう?とたびたびおもうことがありました。

飼っていたラブラドルの写真をひっぱり出してきました↓











犬を飼った事がある方ならご存知かもしれませんが、「ごはん」や「さんぽ」という言葉にはすぐに反応し死ぬほどせがむくせに、

他の言葉には「おいら人間の言葉ワカランけんね」というような態度をとるのです。

あのスーパードッグをみると、どうやら犬は相当程度人間の言葉を理解しているようです。

しかし自分の興味が向かない事にはあまり反応しないということなのだろうと思います。

ということは、いかに犬に興味を持たせるか、ということがしつけや訓練の鍵になるのでしょう。


この番組で犬と猿に対して、人間の指示をどの程度理解できるかの実験をしていたのですが、これまたとても面白かったです。

彼らを前にして、二つの伏せたカップを置き、その一方に餌を入れるのです。

そのカップにはふたつとも同じえさのにおいが付いているので、臭いからは判断できないのですが、

餌を選ばせる前に、こっちにえさが入っているからね、と指でさしてから彼らの前に差し出すと、

犬はその意味をちゃんと理解して、指示された方のカップをあけるのですが、

なんとサルはまったく指で指示した意味がわからず、適当にカップをあけるのです。

さらに驚いたことには、犬は人間が指をささなくても、視線でこっちと合図するだけでそっちにえさが入っていると理解するのです。

犬は、人間の指示が理解できるように改良されてきたので、サルよりもそのような能力を発達させてきたのだと説明されていました。

しかし私はサルの方が知能が高いと思ってきただけに、この結果にはとても驚きました。


この番組の最後にあるドーベルマンが紹介されていたのですが、その犬は驚きを超えた神秘的なものさえを感じました。

この犬は4歳のときに保護施設からある家庭に引き取られてきたそうなのですが、飼い主が与える人形で遊ぶのが大好きなのです。

初めのうちは、単に人形にかみついて、振り回したりして遊ぶだけだったのですが、

そのうちに、地面に人形を三角形や平行線、半円など、ある一定の図形に配置して遊ぶようになったのだそうです。

その様子を動物行動学者が観察していたのですが、その学者も驚いたほどで、

やはり犬がなにかしらのメッセージをその人形の配置に託して伝えているのではないかと解説していました。

その犬は、単に人形を図形のカタチに配置するだけでなく、その人形の種類、たとえばカエルの人形だけを三角に配置するとか、すべて仰向け、とか、

手をつなぐ、抱き合うなどの何かしらの規則をもって置かれているらしいのです。

これは本当に驚きました。

何か犬との新しいコミュニケーションが出来るようになるのではないか、と期待させるような光景でした。


この地球ドラマチックという番組、どちらかというと子供向きなのかな?と思わせる感じなのですが、

その内容は常に最新の研究に基づいた極めて知的なもので、大人が見ても十分楽しめ、感心させられ番組となっています。

来週は、

2009年8月20日(木) 19:00~19:40
『ヒトの“視覚”はこんなにスゴイ!』


という内容のようですが、これまたとても面白そうです。

皆さんも機会があったら、一度見てみてください。

NHK教育番組は、あなどれない番組が結構多いです!


おしまい




参考:
NHK教育 地球ドラマチック 『犬って天才!?』
http://www.nhk.or.jp/dramatic/backnumber/171.html

2009年8月13日木曜日

エリートをどう育てるか~反面教師としての日本海軍から学ぶ



先日、NHKスペシャルで三回シリーズの『日本海軍 400時間の証言』というものをやっていました。

日本海軍 400時間の証言 第一回 開戦 海軍あって国家なし

日本海軍 400時間の証言 第二回 特攻 やましき沈黙

日本海軍 400時間の証言 第三回 戦犯裁判 第二の戦争


戦後、軍の上層部にいた人たちが自主的に集まって、なぜ戦争になってしまったのか、なぜ戦争に負けたのかなど

反省すべき点を検討し、これからの日本のために役立てようという会議が開かれていたのだそうです。


今回の放送の中で焦点を当てられたのが、軍令部という組織でした。

天皇の統帥権を補佐し、実質軍のすべてを統括するような組織で、

ここに所属する人たちは、本当にエリート中のエリートだったそうなのです。

しかし私は反省会で指摘されていた、その組織のあまりのいい加減さ、視野の狭さに唖然としてしまいました。

日米開戦にあたっての勝算がどの程度あったのか、という反省会での質問に対して、勝つ見込みなど初めから真剣に検討されていなかったというのです。

しかも特攻兵器などは、終戦間際になってやむにやまれず開発したのではなく、戦争のはじめからそのような兵器を作っていたのだそうです。

人間を一人前に育てるのに20年かかるとするなら、それを如何に大事に使い、経験値を高めていくかが肝要なはずなのに、

たかだか一回の攻撃のために、その20年間時間と費用をかけて育ててきた存在を花火のように使い切ってしまおうという兵器を、作戦の初期に考えていたのです。

実はゼロ戦も、当時世界一の性能と謳われていましたが、あれも人命軽視があってのことだったのです。

アメリカはパイロットを守るために、厚い鉄板などを操縦席のまわりに廻らすなどの対策を施していましたが、

日本のゼロ戦は、機動力を極限まで高めるためにそのような対策はまさに“ゼロ”だったのです。

パイロットなどは、特にその経験値が戦闘においてものをいうのに、そのような貴重な人的資源を、湯水のごとく使ってしまったのです。


少し話がそれましたが、軍令部の人たちは何をやっていたのかと言えば、自分たちの組織の権益の維持で、

その内部の闘争に勝つために国を利用し、日本を戦争へ突入させたというのが真実なのだそうです。

私はそのあまりの愚かさ、視野の狭さにあきれてしまいました。

国家を導くためのエリートを教育したはずなのに、自分たちの権益争いのために国を破滅へと導いてしまったのです。

番組内でも指摘されていましたが、これは現在の教育のありかた、そして官僚の行動形態に通ずるものがあるのではないか、ということでした。

本来、官僚は国がよくなるために国家に奉仕しているはずなのに、自分たちの所属する組織の利益のことにしか目がいっていないのです。


私はこれを見て、エリートというものを如何に教育すべきなのだろうかと、考えてしまいました。

たいてい一般にエリートと言われる人たちは、偏差値の高い大学を出ている人たちをさします。

しかし彼らの特質はなんなのかといえば、点数を取る能力に長けているというだけなのです。

つまり、記憶力がよくて、テストという与えられたルールの中で、制限時間内にいかに高得点をとるかという能力に長けているというだけなのです。

それはどのような能力かというと、与えられた仕事を平均的な人より、速く正確にできるというロボット的な能力です。

しかし本当にそれだけなのです。

私はインドで生活していたあとに、日本に戻り一年間勉強して京都の偏差値の高いといわれる大学に入りましたが、

受験勉強というのは、繰り返しによってスキルを上げる事が出来る単なる点取りゲームであることがハッキリわかりました。

入学して、まわりはどんな人なのだろうかと見渡してみましたが、あまりの知識の狭さ、思考の浅さに、びっくりしました。

こういう人たちが、自分たちを優秀な人間だと思いこんで、官僚になっちゃったらやばいんじゃないと正直思いました。

このような単に点をとる能力を特化させた人たちを集めたら、テストで高得点をとるのと同じような行動形態、すなわち目先の利益を追うような行為に走るではないかということが容易に想像されるのです。

いまの官僚の起こした数々の事件を見ていると、まさに軍令部でやっていたことそのもので、これはまずいんじゃないか、、、と思ってしまうのです。


エリート教育でもっとも根本をなさなければならないのは、大局観だと思います。

そしてされに付随する高い倫理性、公共性が必要になってくると思います。

これがなくて能力が高いだけだと、自分たちの利益だけのために奔走するだけの社会悪になってしまうのではないかと思うのです。

このような人を作らないためには、何が必要なのでしょうか。

小さいころから、二宮尊徳などの人間の模範となるような人物や物語を教えること、

そしてもうひとつはスピリチュアルな視点にたった人間観、世界観を教えることではないかと私は思います。

少なくとも臨死体験に関することは、必須事項として教えるべきではないかと思うのです。

人間は誰でも死ぬということ、そして死後どうなる可能があるのかということを視野に入れた、50年、100年というスパンで自らの行為や物事を考える教育をすべきではないかと思うのです。


しかし軍のOBが集まったこの反省会自体も、本来はこれまでの日本のとってきた行動を反省して、今後に生かすためだったにも関わらず、

自分たちの恥部をさらすことになるからと、結局公開されず終わったというのも、なんとも悲しい結末でした。

それは結局、軍令部が自分たちの組織内で閉じていたのと同じ論理ではないかと思うのです。

この番組は現代にも通じる日本人の陥りがちな心性をよく指摘しており、とても為になるものでした。

見ていない方は、是非再放送を見てみることをお勧めします。

第一回 海軍あって国家なし」だけでも十分です。

必ず、役に立つはずです。




参考:

日本海軍 400時間の証言 第一回 開戦 海軍あって国家なし

日本海軍 400時間の証言 第二回 特攻 やましき沈黙

日本海軍 400時間の証言 第三回 戦犯裁判 第二の戦争



2009年8月10日月曜日

仮のハカセさん来たる!



このブログで時々載せて頂いている「
仮のハカセ」さんが、我が家にいらっしゃいました。

東京で研修があったついでに、足を延ばして寄って頂いたのであります。

私は駅にお出迎えに上がり、改札口を颯爽と出てくる姿を想像し、眼を皿にして直立不動の姿勢にてお待ちしていたのですが(笑、、ウソです)、

「仮のハカセ」さん、せっかく買った切符を車中にて失くされたとのことで、駅員のいる出口から出てきたとのこと、

私の予想しない方角からスーツケースを引きつついきなり現われ、不意打ちをくらってしまいました。

さすが出来る方は、凡人の予想を上回る行動をおとりになるようです。


家へ案内する途中に、「もしビールでもお飲みになるのでしたら途中で買っていきましょう」と提案したところ、

ビールをお飲みになるとのこと、お店にて「仮のハカセ」さんはお好みの銘柄を一瞬で指定され、

「アイ、アイ・サー」とそのビールをひっ抱え、レジで支払いを済ませて、家に帰ったのですが、

すぐ飲むにも拘わらず、冷えたビールでなく常温のものを買ってきてしまった事に気づいたのであります。

おお、またも失態、急遽、井戸水に氷を投入して急速冷蔵しました。


普段長崎にいらっしゃる「仮のハカセ」さんは、そんななか持ってこられたお土産を陽気にいろいろ説明してくださりました。






左上から、長崎のアオサ、宮古島の雪塩、平戸夏果のジュース、長崎の中華菓子「よりより」、 五島手延べうどん、、、

とたくさん頂いてしまいました。

宮古島の雪塩は、



ギネス認定品とあり、

「ナニ、ナニ」と説明を読むと、検出された成分が世界一多いそうで、裏に様々なミネラルがずらーっと表示されていました。

雪塩とあるように、本当にパウダースノーのような塩で、さっそくうちの定番、野菜サラダにサラサラと粉雪のごとく散らしてみたのですが、

まろやかな味にとてもサラダが引き立つように感じました。


中華菓子「よりより」は遺伝子の二重らせん構造を思わせる形態で、さすが学者さんが購入されるお菓子なのであります。

三時のおやつ時に食べてみたのですが、ポリポリと歯ごたえがあり、素朴な味がしてとてもおいしかったです。



「アチョー!」とこんな感じに元気になれそうなおやつです。


夏果のジュースの口をよくよく見てみると、




優秀賞受賞の文字が黄金のシールの中に輝いていて、「へへーー」と思わず平伏してしまうような威厳を漂わせておりました。

これは自分たちだけで飲んでしまってわ罰が当たるわいと、今度、
妹夫婦家族が来たときにでも出して、みんなで有難く頂きましょうということになりました。


夕食を食べつつ、歓談に花が咲いたのですが、私が今回もっとも興味をそそられたのがコレ↓




「仮のハカセ」さんが研修の現場で売っている様々な本の中から、その慧眼にて一瞬の直感にて購入を決意された本なのだそうです。

ぱらぱら内容を見せてもらったのですが、ヤバイ、、かなり面白そうです。

アマゾンでは以下のように紹介されていました。

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?


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内容紹介

〈文字・読書は、脳を劇的に変える!〉
古代の文字を読む脳から、ネットの文字を読む脳まで、
ディスレクシア(読み書き障害)から、読書の達人まで、
脳科学 x心理学 x教育学 x言語学 x文学x考古学をめぐり、解き明かす。
*マーゴット・マレク賞受賞

●主な内容
・古代の文字は、どのように脳を変えたのか?
・脳は成長につれて、どのように読み方を学ぶのか?
・熟達した読み手の脳とは?
・オンライン・リテラシーの進展によって、何が失われるのか?
・ディスレクシアの4つの原因と早期発見の方法・最新教育とは?
・英語・外国語はいつから、どのように教えるべきか?
・日本語脳・英語脳・中国語脳の違いとは?

……優れた業績により数々の賞を受賞した著者が、
その卓抜な成果を凝縮させた待望の論考!

●メアリアン・ウルフ
タフツ大学のエリオット・ピアソン小児発達学部教授、読字・言語研究センター所長。専門は認知神経科学、発達心理学、ディスレクシア研究。優れた業績により、アメリカ心理学会、国際ディスレクシア協会、アメリカ国立小児保健・人間発達研究所などより数々の賞を受賞している。本書も、読字に関する最良図書として「マーゴット・マレク賞」を受賞。


●目次
■ Part 1 脳はどのようにして読み方を学んだか?
第1章 プルーストとイカに学ぶ
第2章 古代の文字はどのように脳を変えたのか?
第3章 アルファベットの誕生とソクラテスの主張

■Part 2 脳は成長につれてどのように読み方を学ぶか?
第4章 読字の発達の始まりそれとも、始まらない?
第5章 子どもの読み方の発達史脳領域の新たな接続
第6章 熟達した読み手の脳

■Part 3 脳が読み方を学習できない場合
第7章 ディスレクシア(読字障害)のジグソーパズル
第8章 遺伝子と才能とディスレクシア
第9章 結論:文字を読む脳から「来るべきもの」へ
・・<日本語版向けオリジナル・テキスト追補>

レビュー
週刊文春、日本経済新聞ほか
立花隆ーー週刊文春「私の読書日記」
非常に面白い。
・・・文章を読んでその意味を取るという行為は、全脳をフルに使う驚くべく複雑な知的作業である。そのプロセスがミリ秒単位で明かされていく。

●山形浩生ーー『ビジネス スタンダード ニュース』
大プッシュ・・これはすごい本。
読む、という行為は、単純な情報獲得手段じゃない。この能力を身につけるために、人間の脳自体が変化する。
そしてその能力が新しい視点や深い思考の獲得を可能にすることで、ぼくたちの文化をも形成する。それを脳科学や児童心理学、歴史学、教育学など多岐の分野を縦横に使って説明した驚異的な本だ。

養老孟司ーー毎日新聞「日曜書評欄」より
一般人向けに書かれたものなので、脳に関するさしたる予備知識はいらない。言語系の教育に携わる先生たち、学ぶ生徒、さらに読書が苦手な人はいうまでもなく、多くの人に読んでもらいたい書物の一つである。そうすれば、安易に小学校で英語教育を、などといわなくなるだろうと、私は思っている

●竹内薫(サイエンスライター)ーー日本経済新聞・「目利きが選ぶ今週の3冊」
「読む」ことで人間の脳はどう変わってきたのか? 本好きにはたまらない疑問に明快かつ詳細に答えてくれる。★★★★(読みごたえたっぷり、お薦め)

●粉川哲夫(東京経済大学教授)ーー東京新聞・中日新聞「日曜読書欄」
・・ディスレクシアは、だからケータイメールを読むが本を読まない世代を否定しないのであり、かえって、そのようなデジタルテクノロジーと「分析と推論ができ、自分の考え方で文字を読む」ことが接合された場合には、まったく新しい表現や創造性が生まれる可能性を示唆しているわけだ。

●アルベルト・マングェルーー『読書の歴史 あるいは読者の歴史』などの著者
脳によって、いかに私たちが言葉の魔術師になりうるのかついての、面白く、包括的で、楽しく明快な記述が、ここにある。


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これは読まねば、、、と図書館の検索をかけてみると、市内に一冊あったのですが、「貸出中」の表示。

しかも7件も予約が付いていました。

私はすぐにその後の8番目に予約を入れましたが、まわってくるのはいつになることやら、、、。

う~、はやく読みてぇ~、とはやくも禁断症状気味の私は、買う事も視野に入れつつ検討しているのであります。

内容紹介にある、ディスレクシア(読字障害)というのは、字は読めるけどそれが意味とつながらないという障害で、

はじめて知った時は、「へぇーそんな障害があるのか、」と妙に感心してしまったものですが、ウィキペディアにもあるように

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2

結構有名な俳優(たとえば、トムクルーズやキアヌリーブス)や、著名人の多くが実はこの識字障害であることを知って私はさらに驚いたのであります。

そこらへんがどうなっているのかも書いてあるということなので、とても心ひかれる一冊なのであります。


「仮のハカセ」さんのお勧めしてくださる本は、いつも私の興味のドンピシャのところを突いてこられるので、思わずう~む、、とうなってしまいます。


少し前には、『思い出のマーニー』という本




を紹介してくださり、「どんなもんかな~」と軽い気持ちで借りて読んでみたのですが、読み進めていくにつれ、どんどん引き込まれ、

ノンフィクション派で、小説の類をあまり読まない私も、そのストーリーの緻密さ、深さにとても感動しました。

たかが児童文学と侮ることなかれ!実に深い内容で、考えさせられる主題がいくつもありました。
河合隼雄さんもご著書のなかで、この物語に関してコメントをされているそうです。

もしこの夏、なにか物語を読もうかと考えておられる方は、ぜひ、この「マーニーの思い出」読んでみてください。お勧めします。






2009年8月6日木曜日

こりゃいい運動だ!



何事もやりたいこと、続けたいことなどがあったら、その敷居を低くするというのがその継続のコツだと私は思います。

具体的に言うと、気持ち的、体力的、経済的に負担のかからない自分に合った方法を見つけるというのが大事になってくるのかと思います。

たとえば運動を習慣化したいと思っても、やっていてる運動が面白くない、きついだけだと続かないし、

ジムなどに通うのであれば、お金はかかるし、そのために時間もとられてしまいます。

だから運動を続けたいのであれば、楽しめる、あるいは少なくともつらくない運動を見つけるべきだし、

ジムなどに通うのではなく、自宅やちょっと外に出て気軽に出来るというものがいいと思います。


私は毎朝、毎夕、軽い運動をし、週に一回は20分ほどジョギングするのが自分のスタイルになっていますが、

夕食後、軽く歩くぐらいの運動ができたらなぁと感じてきました。

しかし夕食後は見たいテレビはあるし、わざわざすべて戸締りして、薄暗い中散歩に出るのはなんかなぁ、、と思っていました。

(変質者に間違われるのも困るし、、、)

そんな中、今回ためしてガッテンで紹介していた運動は、あるゆる意味で理想にかなった運動でした。

それがこちら↓

http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090805

スローステップ運動です。

20センチぐらいの台を用意して、ゆっくりと昇り降りするだけです。

テレビ見ながらできるし、わざわざ外に出ていく必要ないし、お金はかからないしでいい事づくめです。

さっそくやってみましたが、

う~ん、これはいい、素晴らしい!

実際やってみると、単に前向きに昇り後ろ向きに降りるというものよりも、

前向きに昇って前に降りて、また後ろ向きで昇って後ろ向きで元の位置に降りるという方が、足の全体の筋肉を使っている感じがして良いようでした。

私は食後、外に出て歩く代わりに、テレビを見ながらその場で行進をしてみたりしていたのですが、どうも面白くなく、自分の中で却下されてしまいましたが、

このスローステップ運動なら、それなりの負荷があって、やりがいを感じます。また新たに自分の運動の習慣として定着しそうです。


今回の番組に先立って、スロージョギングというのをこの六月に取り上げたらしいのですが、私はすっかり見落としていたようです。

このスロージョギング、ウォーキングよりもいろいろな効果があってかなりいいみたいですね。

http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090610

私もジョギングはダラダラ走るというのをモットーにしているのですが、自分の気持ちいいペースでたらたら走るのって結構気持ちいいんですよね。

これを時計でタイムを計りだすと、速く走ることに気を取られてしまって楽しめなくなるのです。

一応タイムも計るけど、時間はたんなる目安にして、自分の気持ちいいペースで走るというのが一番楽しめる走り方だと感じています。


今回のガッテンでは他に、足に負担をかけない走り方として

①歩幅を小さく
②音を立てない


というのをやっていて、ナルホドネ、と思いました。

今度走るときに試しにちょっと意識してやってみようかなと思いました。


しかしガッテンのテーマの取り上げ方は、とても実際的で役に立つ事が多く、素晴らしいなといつも感じます。

(番組を見なくてもHPで要点だけを短時間に見る事が出来るというのも素晴らしい点です)

これからもどんなテーマを取り上げてくれるのか楽しみであります。


おしまい




参考:


スロージョギングの?に答えます
http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090805

脳いきいきダイエット 超らくジョギング革命!
http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090610

2009年8月5日水曜日

グッドアイデアな自転車



まずはこの動画を見てください↓



折りたたみのあまりのスマートさに、スゲェー、、と思わず見入ってしまいました。

自転車を運ぶとなると、車輪外して、ハンドル外して、すべてを輪行バッグの中に詰め、総重量15キロぐらいのものをひっかついでいかなくてはいけないのですが、

なんでタイヤが付いているものをわざわざひっかかえていかなければならないんだ?と前から思っていました。

(しかも自転車を宅急便などで送るとなると1万円ぐらいかかってしまうのです。この値段でママチャリ一台買えちゃいますよ!どこかの運送屋さん、自転車を安く運んぶサービス作ってくれませんかねぇ。)

タイヤが付いているなら、そのタイヤをうまく利用してゴロゴロ引っ張れるスーツケースのようにトランスフォームしてくれたらなぁとおもっていたのですが、

この自転車はそのようなコンセプトに基づいているようで、すごいなぁと感心してしまいました。

しかもブレーキは何気にディスクブレーキだし、、、。

しかしこの自転車、なぜか漕いでいるシーンが映っていません。それもそのはず、チェーンが付いていないのです。

すなわち、ペダルは飾り、足置きのためのものになっているようです。

自転車も長い歴史があるのだから、もっといろいろなアイデアのものがでてきてもいいのになぁと思うのです。

でもそういう意味では、リカンベント・バイクは画期的だと思います。平気で時速50キロぐらいでちゃうみたいです。

境川沿いを湘南台図書館まで行く途中(およそ10キロの区間)で、たまにリカンベント・バイクに猛烈な勢いで抜かれていきます。

自転車は風に吹かれつつ景色を楽しみながらゆったり乗るのがいいだよ~と思いつつも、

いつか乗ってみたいなぁ、、、。





参考:

リカンベント・バイク(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88

リカンベント・バイク(画像集)
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4DAJP_jaJP265JP265&q=%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88&um=1&ie=UTF-8&ei=4H95SpnXCsb_kAWruZ23Bg&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=4

ギズモードusa (もとネタ)
http://gizmodo.com/5329988/the-contortionist-bike-is-compact-bendy-and-oddly-sexy-like-an-actual-contortionist?autoplay=true






2009年8月2日日曜日

久しぶりにいい映画を観た



8月1日は映画の日でしたが、近くのビデオ屋さんも安くなるので、今回はビデオを借りました。

一番の楽しみは、ドラゴンボールの実写版がどんなことになっちゃっているのかを確かめることでした。

ネットでの評判も散々で、Gooの映画情報でも31点というなんとも低い評価をされているので、

逆にどんなことになっちゃったのか楽しみにしていたのですが、

やはりリリースされたばっかり&夏休みということもあってかすべて借りられていました。

そこであまり期待していなかったのですが、ブラピがでているということもあって借りたのがコレ ↓






予想以上に面白い展開で、考えさせられることもあり、ほのぼのとした気分にさせてくれました。

久しぶりに映画の中にゆったりとした時間の流れを感じることができました。


主人公は生まれたときにすでに老人のようであるベンジャミンで、

彼が年をとるにしたがって周りの人たちと逆行して若返っていき、最後亡くなるというのがおおまかなストーリーです。

え、それだけ?と思われるかもしれませんが、言ってしまえばほんとうにそれだけなのです。

子どものときから老人のような姿のベンジャミンが、成長とともに題名にあるような「数奇な人生」を送るのですが、

実はここでテーマになっているのは、ベンジャミンと関わってくるすべての人たちの人生でもあるのです。

つまりベンジャミンの人生というのは、この映画に出てくる人たちの人生を代表しているだけで、

ベンジャミンと関わりのあるそれぞれの人たちの人生も、十人十色それぞれユニークで、輝いていて、愛らしいのです。

そしてそれは、こちら側で見ている人のそれぞれの人生も違っていていいし、それぞれに輝いていて素晴らしいということを伝えてきているように感じました。

映画の中に一貫してあったのは、あるゆる生き方に対する肯定感だったように感じます。


また、他に主要なテーマとして、老いと死があったように思います。

ストーリー自体はベンジャミンの一生が描かれているのですが、

その彼の人生に交差する様々な生と死、そして人生の晩年で誰もが向き合わなければならない老いが、

あたたかい目線でたんたんと描かれていたように感じました。

私たちが日常生活を送っているとつい忘れがちになっている「人の一生」という時間のスパン、そしてというものに私たちの意識の焦点をあわせてくれる素晴らしい映画でした。


老いや死というと、なんかもの悲しく深刻になりそうな感じがするのですが、そのような雰囲気がまったくなく、

逆にユーモアと笑いに満ちたストーリーが、ゆっくりとしたテンポでたんたんと展開していくのです。


アドレナリン系の映画が多い中にあって、静寂とあたたかさにみちたとても楽しめる良い映画でした。

ハリウッド映画でこのような気持ちにさせてくれた映画に出会えたのは、ホント久しぶりだなと感じました。


しかしブラッド・ピットの演技力はすごいなぁと改めて感じます。

私は彼の主演の映画で、同じような雰囲気をもつ『ジョー・ブラックをよろしく(1998)』という映画を思い出しました。

ゆったりした時間が流れるという意味では、『リバー・ランズ・スルー・イット(1992)』も似ていますかね。

私はブラッド・ピットの『12モンキーズ』や『ファイトクラブ』のような落ち着きのない、少しイカレた感じの激しい演技も彼らしくいいなぁと思うのですが、

このような静けさと落ち着きを感じさせるような役もまた不思議と彼にあっているように感じます。

ブラッド・ピットというと、どことなくアイドル的で、チャラチャラしてそうなイメージがありますが、実は極めて演技派で、幅の広い役をこなせるすごい俳優だなとつくづく思うのです。

皆さんも機会があったらぜひ見てみてください。

何かしら感じるものがあると思います。


おしまい。

参考:

Goo映画:ベンジャミン・バトン 数奇な人生
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13916/index.html


ベンジャミン・バトン 数奇な人生 公式HP
http://wwws.warnerbros.co.jp/benjaminbutton/


Goo映画:ジョー・ブラックをよろしく(1998)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30766/index.html


Goo映画:リバー・ランズ・スルー・イット(1992)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10371/index.html


Goo映画:ドラゴンボール実写版
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD13292/index.html