2009年7月30日木曜日

麦茶はえらかった!



夏になると無性に飲みたくなるのが麦茶です。

麦茶を飲むと、

あ~夏だなぁ~~


と少し心がとろけた感じになります。

しかし夏になるとなんでこんなに麦茶が飲みたくなるのだろうか?

子供のころから飲んでいたから、という体に染みついた習慣というものもあるのでしょうが、

それとは別に何か体が欲しているという感じもするのです。


麦茶を飲むと、ミネラルの補給になるといわれますが、実際どの程度入っているのでしょうか。

下の表を見ると↓

http://www4.ocn.ne.jp/~katonet/syokuhin/5tei/5sikou-A.htm


とくにミネラル分が際立っている、ということもないようです。


しかし最近になって麦茶には色々な効用があることが分かってきているようです。

全国麦茶工業協同組合というところのHPによると、

麦茶には、

胃の粘膜を守る、

糖尿病の合併症を防ぐ、

発がん性物質を抑える、

血液をサラサラにし、血圧を下げる

抗酸化作用によりガンや心筋梗塞、脳卒中を予防する


などの素晴らしい効用が色々とあるようです。


またウィキペディアなどを読むと、日本人は緑茶などよりさらに昔から麦茶を飲んできたようで、

やはり日本の土地、日本人の体には麦茶があっているのでしょう。

面白い事に、ウィキペディアによると、かの医聖ヒポクラテスが発疹の患者に麦茶を飲ませたらしく、

それがフランス語のハーブ茶の語源になっているそうです。


ちなみに英語で麦茶は

バーリー・ティー(barely tea)というそうですが、これでホント通じんのかな?

barely (大麦)から beer がきていますが、beerを飲まない私には関係ないです。

また大麦の茎は ストロー(straw)で、夏の必需品麦わら帽子はストローハット(straw hat)というそうです。

ということは、ストローハットをかぶって、ストローで麦茶を飲むって、英語的には結構ダジャレになっているんだな、、、



夏になると当たり前のように飲んでいた麦茶ですが、

やっぱ麦茶ってすごいんですね。



麦茶サイコー!!




(夏はダージリンティーを水出しにしてもおいしいよ、、、)

(^_-)b


参考:

全国麦茶工業協同組合
http://74.125.153.132/search?q=cache:QsP1l5UEZ2gJ:www.mugicya.or.jp/effect/index.html+%E9%BA%A6%E8%8C%B6+%E5%8A%B9%E8%83%BD&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


麦茶(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E8%8C%B6

ためしてガッテン:ウマい!昔懐かし昭和の麦茶をパックで作る
http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090708





2009年7月28日火曜日

ダスカロス



かつてキプロスにダスカロス(1912-1995)と呼ばれる数々の奇跡的な治療を行ったヒーラーがいたそうです。

治療に対して決してお金は受け取らず、また取材などの申し込みも一切受け付けなかったそうです。

ひとつには、治療は自分がおこなっているのではなく、自分は単に通路となっているだけだという思いがあったからのようです。


彼は自らのすべての過去生を覚えており、その時の言語も話せたそうです。

その過去生のうちのひとつでキリストの最年少の弟子だった事があるそうで、


驚くべき事にダスカロスは七歳にして学校の先生たちを相手に、「霊的な真理」を教え始めたといいいます。

本に載っていた写真を見ると、どこにでもいそうなごくごく普通のおじさんという感じでした↓。
http://www.daskalos.jp/201researcher/index.html

私は彼の著作を一冊読んでみました↓




エソテリック・プラクティス―キリストが遺した瞑想法とエクササイズ


色々な瞑想法などが紹介されていましたが、私が一番印象に残ったのは、

彼がもっとも重視した事の一つ「内省」でした。


これは寝る前に、心を落ち着かせてから

その日朝起きてから夜寝るまでの一日の出来事を思い浮かべ、

自分がすべきだったこと、すべきでなかったことに思いを致すというもので、

そこで反省すべき点があったら、今後改善していくというものです。


私はこれを読んだ時に、臨死体験者ダニオン・ブリンクリー氏の
最新刊に書いてあった

人生回想(ライフ・レヴュー)の活用法を思い出しました。

彼によるとやはり寝る前に、臨死体験ですべての人生を回想するように、

その日一日の出来事を思い浮かべて、反省すべき点があったら改善していくようにするというものです。

実際の臨死体験における人生回想は、すぐそこで自分がやっていることを見ているにもかかわらず、

やるべきでなかったことを修正できない事がとても歯がゆく感じのだそうです。

そういう意味で、生きているうちに、そのような人生回想的な視点をもって、

自らの生き方を変えていけるとというのは、とても貴重なことなのだそうです。


ダスカロス氏の「内省」に関しては、HPをご覧ください。

http://www.daskalos.jp/301lesson/index.html

ダニオン氏の人生回想に関しては、「The Secrets of the Light」 の17章の全訳を下に載せておきますので、興味のある方は読んでみてください。



おしまい




参考:

ダスカロス公式ホームページ
http://www.daskalos.jp/index.html




パノラマ的人生回想


肉体から光の体へ戻る瞬間、三次元の世界に私たちを結び付けている銀色の線(シルバー・コード)が切断される。その線が切れると、魂は解放され、ふたたび自由となる。

しかしその先にはまだ、私たちがこの世からあの世へと、残りのステップをうまく移行していくための愛情あふれる儀式が存在する。

体を出て、トンネルを抜けるのは、そう大変なことではない。しかしトンネルの終わりで光に到達すると、まったく新しいゲームが展開される。


第七の真実は次のようなものであった。

「私たちがこの世に来たのは、独自なる神の御印としてである。この神の御印がどのように、そしてなぜ私たちの独自なる運命なのか、このことに対する理解のみを私たちは次の世界へ持ち込むことができる。」

これが真実であると私にはわかっている。しかしこの世を離れ、あの世へと旅立つ魂の多くは、彼らがもっている独自なる神聖さを、意識的に理解できているわけではない。ここで、パノラマ的人生回想が生じるのである。

パノラマ的人生回想が行われる時、あなたは360度のパノラマ映像で、文字どおり人生を‘生き直す’。信じられないほどの細部の細かさで、起こったすべての出来事を見る。

たとえば、出産であなたを取りあげた医師の鼻に何本の鼻毛があったかを数える事ができる。また、あなたが6歳のころ、庭で泥まみれになって遊んでいたときに、そこにあった木に何枚の葉がついていたかを数えることだってできるのだ。文字どおり、すべてを生き直すのである。

次に、人生を相手の視点に立って見る。私たちは社会の中で、相手に思いやりを持って接するように教えられる。しかしあの世で相手の立場に立つ視点は、その人そのものになって感じるのであって、共感するのではない。

そのあと、あなたはまさに、人生で遭遇したすべての人に‘なる’のである。その人間になって感じたことを体験し、あなたと相手の間に生じたダイレクトな結果を感じることになる。

私が最初のパノラマ的人生回想を体験した時には、自分が身体的、感情的に傷つけた人びとにならなければならかった。私は自分が与えたどんな小さなダメージもすべて自分で体験しなければならなかった。

しかし次の二回目の回想においては、私が最後を看取ったホスピスの患者さんたちの大きな感謝と平和な気持ちを体験する事ができた。


あなたはそこで審判がどのように執り行われるか知っているだろうか?どうなるか想像してみてほしい。あなたがパノラマ的人生回想をしているとき、審判を下しているのはあなたなのである。そして覚えておいて欲しいのは、あなたこそが、いままで出会った中でもっとも厳しい判事となるのだ!


また大事なことは、この審判にはいかなる罰も伴わないということである。いったん人生回想を体験し、もっと違うふうに行動できたかもしれないと考えることで審判を下すと、それで終わりとなる。

そしてすぐに、すべての罪、悲しみ、後悔の記憶から解放される。最後の分析をする中で、過ぎ去った人生の中のごくわずかな事柄が重要なこととして残る。

その重要なこととは、あなたの犯した過ちではない。スピリットにとって重要なことは、愛、やさしさ、思いやりの気持ちをもって、どれだけ多く進んで他者を助けようとしたかである。

あなたの与えた愛、そして潜在的に他者に行きわたった愛が、あなたの独自なる神の御印である。あなたが去った後もこの世に残るのは愛であり、愛だけが、神の意識の拡大に対する貢献として故郷に携えていくことのできるものである。この世とあの世の両方において真実なるものは、愛のみである。


他者の人生に変化をもたらすことは、私たち人間的存在としての霊的基本事項である。他者を愛に目覚めさせ、夢を持つように勇気づけ、希望をもち続けるよう援助をすることは、すべての功績のなかでももっとも祝福されるものである。

ささいな、自然にでた思いやりの行為は、スピリットに最高の印象を与える。知らない人にほほ笑みかけ、落ち込んでいる友人の背中を優しくたたいてあげ、また恵まれない人に食事をご馳走してあげること―こうした諸々の行いが、思いやりある行為の真の御印として刻まれるのである。

この無垢なる美徳の境地に基づいて生き、愛せるようになることがゴールであり、私たちすべてはそれを人生の指針とすべきである。

心を無私のエネルギーに同調させる時、私たちは究極のゴールを達成しつつある。そうしていくことによって、霊的な意識レベルを上げ、私たちは天国のより高次のレベルへ行けるようになる。

この世に於いて自然にでる思いやりの瞬間が多くなるにつれて、あの世へついたときに住する意識のレベルもより高いものとなる。

パノラマ的人生回想は、霊的な成長の度合いを測るための公正な道具とし働き、私たちが再び天国に入ったときの意識の出発点を決定する。


自らパノラマ的人生回想を体験し、とても興味深く思えることは、人生回想が様々な点において、この世での人生を豊かにしうるということである。

天国での人生回想と同じチェック項目とバランスの観点をつねに作動させることで、私たちは自分自身を益するような力強い生き方をするができる。

人生回想の働きに関する完全な知識をもつことで、私たちは日々、自らの運命に磨きをかけていくことができる。


人生回想といういつでも使うことのできる宇宙的な測定装置は、私たちに与えられている最高の贈り物であるが、実際に使うための知恵をもっていなければ意味をなさない。

私はあなた方に、日常生活のなかにおいて、愛を発展させ、喜びを分かち合えるような状況を意識的に求めてみることをお勧めする。

自然環境を守り育む、地球の保護者あるいは管理人として自分を想像してみなさい。捨てられたペットを保護してあげなさい。毎週、ボランティアのための時間をつくりなさい。

こういったことは、私たちが意識的に出来るちょっとした愛の行為のうちのほんのいくつかの例に過ぎない。しかしこのような行為こそが、私たちを取り囲むあらゆる意識レベルに対して、もっともポジティヴで肯定的な影響を与えるのである。

あなたの高次なる意識は、あなたがこのようなパノラマ的人生回想に関する知識を知るように導いてきたのであり、あなたは大いなるギフトを受け取ったことになる。

よって、今やあなたは責任を負っている。というのも多くを与えられた者には、それだけ多くのことが期待されるからである。


この観点からすると、私たちの霊的な責任とは、全体のより大きな利益のために、パノラマ的人生回想の視点を日常生活のなかに、たえず、賢明に取り入れることにある。

心に留めておいてほしいのは、あの世において、あなたはそれまでに愛し、あるいは傷つけたすべての人間に‘なる’ということである。

このことを知った上で、自分の人生の中で出会う人々、動物、あるいは植物や自らの所有物に対して、あなたの接し方はどのように変わっていくだろうか?

私たちすべては、このことについてもう少し真剣に考えてみる必要がある。宇宙においては、記録されない思考、言葉、行為というものは存在しない。

それ故、人生の物語を記録したDVDを見ることになる以前に、私たちは愛の気持ち、開いた心から行為をする必要がある。


人生回想の視点を日常生活の中で生かすことには、もう一つの利点がある。それは、霊的に停滞してしまっているブルー・グレーの領域を回避できるという点にある。

長年にわたって、私は二つの世界の間にあるこの不毛な領域に固着してしまっていた。自分がブルー・グレーの町へ直行するスーパーハイウェイを建設しつつあったと気づいたときは、さすがに恐怖を感じた。

そのハイウェイの一マイル一マイルは、まさに自らの無関心、反感、皮肉によって作られていた。今や私は、かつて自分自身に対して何をしていたかを理解しており、あなたが同じ間違いをしないよう、私はできる限りのことをしたいと感じている。

ブルー・グレーの領域は不毛なる中間状態であり、必ず避けることができる。毎日の人生回想を実践することで、私たちは、自分たちの精神的、肉体的な行為が、アストラル界における自らの霊的な進歩に対してどのような影響を与えるかをチェックし、バランスをとることができる。

このようにして、私たちはあの世でブルー・グレーの虚無にとらわれるという一切の恐れを取り除くことができる。

自らの思考、言葉、行為をしっかりと意識し、それらが私たちの周りのすべての生命エネルギーに対して如何なる影響を与えるかに注意することによって、私たちは日々着実に内なる神聖さへ近づいていくことができる。

このような簡単な方法において、私たちは天国と地上の結びつきを作り出すことができるのである。

私がホスピスの仕事をしている主な理由はこの点にある。ホスピスでの仕事は、物質的な形態をとった神聖な愛の行為であるといえる。

私は、あたかも自分が神聖なる存在になったかのように、自分の力と勇気の限りを与える。ベッドサイドにおいて、私は死につつある人を守り、安心させるための行動をとる。

彼らは決してひとりでないことを確信させてあげる。もし可能なら、彼らを導いて人生回想をさせ、彼らの心を開き、差し迫った移行の恐怖を取り除いてあげる。

私はベッドサイドにおいてこの世に変化をもたらしている。それは、この世を去ろうとしている人のためだけでなく、残される家族のためでもある。

私は自らのパノラマ的人生回想によって、ホスピスという仕事が、神聖さを表現するための自分にあった方法であることを知った。

人生回想を、毎日のスピリチュアルな練習予定に組み入れることによって、あの世でやるのと同じか、あるいはそれ以上の洞察がもたらされることだろう。


それでは、毎日の人生回想のやり方を見ていこう。人生回想の練習にもっとも適しているのは、寝る直前の短い時間である。

私はやる前に必ず就寝の準備を整えておく。というのも回想をしていると眠くなり、そのまま深い眠りへ誘われてしまうことが多いからである。

回想に適した雰囲気を醸し出すために、私は天国的なリズムをもったニューエイジ・ミュージックをかける。

他にも、やわらかいロウソクの光とラベンダーの香りのアロマテラピーを使うのが私の好みである。もちろん、あなたはこういったくつろいだ雰囲気をつくりだすための小道具を用いたくないと思うかもしれない。これは完全に個人の好みの問題である。

(もしあなたも、私が妻に言われるようなADHD(多動障害)であるなら、少なくとも集中できるようにその二つを試してみると良い。)

次に、私はたいてい二、三の軽いストレッチをする。瞑想をする前のように、混乱した心をクリア-にする事が重要であり、意識的に深呼吸をしてみるのも役に立つ。さてこれで夜の人生回想をはじめる準備ができた。

1) その日一日に思いを巡らし、あなたが親切を施したと思われる出来事を思い浮かぶままに回想する。(たとえば、誰かのためにドアを開けてあげたか、次の車のためにパーキングメーターに少し余計にお金をいれただろうか?)

2) 一日のなかで、他の誰かがあなたの人生に恩恵をもたらしてくれたような出来事を思い浮かべる。その人に感謝の念を送り、ゆったりと深呼吸をする。あなたは今や、スピリチュアルな認識能力を発動させ、高い次元からこの世へと神聖な流れをもたらしたのである。

3) あなたがもっと違うふうにできたと感じる出来事を評価する。相手の立場に自らをおいて、彼らの視点を理解する。もし必要なら自分を許し、その状況を光で包む。そして必要な償いをすると誓いなさい。

4) お祈り(あなたの気持ちを込めた、意識的な心の企て)をし、そして寝る。

5) 朝まずやる事は、自分に与えられている素晴らしい点を数えあげること!意識が感謝に満たされた状態にあることで、あなたのまわりに磁場的な振動が形成され、その日一日をとおしてより多くの恵みをひきつけるのである。

私はまた、「やること」リストを作っておくと、ものごとが順調に運ぶことに気づいた。これは、妻が私のために書いてくれるリストから思いついたのであるが、いずれにしても効果はある。

私たちの心は、他者を助けるための機会を探す訓練が必要である。その目標に向けて、私たちが達成したいと思う毎日のリストをつくっておくと、たいへん役に立つ。

日常生活におけるスピリチュアルな側面は、私たち自身や私たちの住む世界を物質的に維持するのと同じぐらい重要なことである。

毎日、人生回想のための練習時間をとることによって、より高次なる領域とのつながりが強められ、また人生に、想像を絶する美と喜びの流れがもたらされる。


「類は友を呼ぶ」という不変なる宇宙の法則は、毎日、毎分はたらいている。私たちは常に人々や環境を、個人の現実へと引き寄せている。

そしてその個人の現実とは、私たちが発する想念や愛のエネルギーに基づいて形成されている。この作用は、反対のネガティヴなエネルギーに関しても同様である。

これらの種々のエネルギーが、私たちの全人生のなかで蓄積されてゆくのである。そして移行の過程において、私たちはパノラマ的人生回想によって、実際にそれらが生みだした因果の様子に直面させられるのである。

真実の瞬間が訪れた時、私たちの回想する人生は、すべての霊的な進化のために尽くした煌(きらめ)くばかりの人生の断片で満たされていることだろう。私たちはこのことを確認した上で、今日一日を始めるとよい。





2009年7月27日月曜日

やっぱ2世(議員)なのかな、、、



先日のネットのニュースで以下のようなものがありました。

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小泉進次郎氏、「握手無視」動画を初めて釈明

衆院選に神奈川11区から出馬する議員秘書、小泉進次郎氏(28)が対立候補の握手を無視した動画が「YouTube(ユーチューブ)」へ投稿され批判のコメントが殺到していることについて、進次郎氏が初めて取材に応じ

「(対立候補とよりも)有権者とふれ合いたかった。ひんしゅくを買ったとしたら大変残念」

などと語った。


動画は「小泉進次郎VSよこくめ勝仁 対面 in 横須賀」と題し、5月24日に神奈川県横須賀市内で行われた祭りの際、

スーツにはっぴ姿の進次郎氏が民主党から出馬する弁護士、横粂勝仁氏(27)から握手を求められ、無視して市民らと握手を続ける様子が撮影されたもの。 

ユーチューブで25万回以上再生され、

「この子は挨拶もロクにできないのかねw」

「こういう時に根っこの性格ってでるんだよね」

「こんな態度でもチヤホヤされるのが世襲制ということなんだろか」

など、750件以上のコメントがついた。 


進次郎氏は取材に対し

「恐らくそういう風に受け止められることは予想がついた」

とした上で、

「私にとって祭りとは有権者の方との握手の機会、ふれ合いの機会だから、一人でも多くの有権者と、一秒でも多くふれ合いたい。

あの時はマスコミの方もたくさんきていた。何もあの場所でそういうこと(対立候補との握手)をすることもないと思った」

と釈明した。 

進次郎氏は

「横粂さん本人に対して何も思いはない。一緒に頑張っていきたい」

とも話し、

「ひんしゅくを買ってしまったとしたら大変残念です」と語った。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090726-00000528-san-pol


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実際はどんな映像だったのだろうかとユーチューブを検索してみると、即行でてきました↓




他にも同日のものと思われる動画がありました↓






私は動画をみて、ウワー、すごいなぁー、と思わずつぶやいてしまいました。

どう釈明したところで、こういうところにその人の人柄が出てしまっているのかなと感じました。

小泉さんの息子さんで、若くて、見た目もスマートで、父親の地盤を継ぐ選挙とはいえ、

自民逆風のなかでこれでは、かなり当選難しくなってくるのでは、、と思ってしまいました。


私は昔京都で旅館のアルバイトをしていたときに、

修学旅行生たちへの出し物として、若手の噺家(はなしか)の方が来られていた事がありました。

演目が終わって、その噺家さんたちを玄関へと案内する時に、

ものすごく腰が低く 「ありがとうございました」

と旅館のペーペーの従業員である私に対しても、丁寧に挨拶していいかれた事をとても印象深く覚えています。

さすが芸人さんて違うな、と感じました。

こうして常に腰を低くしていることで、まわりのひとたちから支えられ、

自然に上にあがっていくんだろうなと思いました。


しかし今回の動画を見る限り、事態は逆なのかなと思いました。

自分をはじめからまわりのひとより上に置いているという感じで、

こういう態度をもっていたら、あまり支援は受けらなれないんじゃないかなと思いました。


やっぱ、あいさつって人間関係というか、霊長類の中において基本中の基本だし、

傲慢にならないよう、自分も気をつけなければな、、

と思わせてくれた動画でした。


おしまい


参考:

同じ人が投稿していた、小泉進次郎氏の別の動画もありました↓
(アメリカに留学していたようですね)



(ちょっとヤベッちに似ているなぁ、、)



2009年7月22日水曜日

天然麻100%の蚊帳を競り落とせるか!?



蚊帳サイコー!


コレを実感したのはインドででした。

最初に旅行した時にはまったくの無防備でいったため、

各地の安宿(300円~500円)に泊るたびに蚊の多さに気が狂いそうになっていました。

シーツにくるまれば暑いし、部屋の蚊を退治しても、またどこぞから蚊が次々と湧いてくるのです。

インドの蚊の多さはホント尋常ではなく、まったくもって辟易していました。

また熱帯の蚊は病気を蔓延させるので危険でもあるのです。


初回の旅で懲りていた私は、二回目以降は折りたたみのネットつきテントをリュックでかついでいきました。

蚊が部屋にいるとわかると、部屋の中にテントを組み、その中で寝るのです。

そうすれば、蚊の侵入など気にせず部屋の窓も開けっ放しにでき、

風がスースー入ってきてチョーカテイキなのであります。


参考:ヨーガの聖地リシュケシュで泊まっていた部屋↓



ここも蚊が多かったので、テントを張りました。窓を開けると夜風が入ってきてとても気持ち良かったです。

なんせ部屋のまん前に、ガンジス川が滔々と流れているのです。







私はこのインドの経験から蚊帳の良さを実感し、日本においても部屋で蚊帳を使ってきました。

夜、たかが一匹の蚊トンボのために睡眠を妨げられることはないし、

ベープや蚊取り線香のように熱や化学物質を使わないので人間にも環境にもやさしいし、

蚊帳に囲まれているとなんとなく落ち着くので気に入ってはいたのですが、

タテ糸が綿100%、横糸がレーヨン70%、麻30%の4.5畳というもので、

やはりできたら本麻(麻100%)の蚊帳がほしいなぁと前々から思っていました。

麻は化繊などに比べて風通しがよく、中に人が入ると湿気を吸収するため体感温度が下がるそうなのです。

しかし本麻の蚊帳となると、おメメが飛びだしてしまうぐらいのお値段なので二の足を踏んでいました。

例えばこんな感じです↓(近江蚊帳 麻100%)
http://oumikaya.com/shop.html


そんな折、ヤフーオークションを見てみると、なんと本麻の蚊帳(6畳用)が100円から出品されているではないか!

長期保存され少しシミがついているということでしたが、

本麻が100円からということで少し興奮気味の私は、

シミなんて寝てる時カンケーネージャン

と半ば不良のような口調になっていました。

これは買いだと思いましたが、はたして最終日、いくらまで競り上がるのだろう?

私は予定通りオークション終了の10分前から競りに参加しました。

参加したときの値段は3000円ぐらい。

アレ?案外安いなぁとおもってとりあえず上限5000円ぐらいで競ってみるかと入札したのですが、

なんとあっけなく3980円でオークション終了!

\(^◇^)/ バンザーイ

本麻の6畳ものなら、この10倍以上はするのに、こんな値段で落札してしまいました。

おそらくシミつきということでそれ以上値段があがらなかったのでしょう。


さっそく届いたものをあけてみたのですが、


(数字とメートルが漢字表記なので、かなり古いものなのでしょうね。)





シミといってもまったく気にならない、というかほとんど見えない程度で、ほぼ新品同様の美しさです!

広げて、 広げて、




さっそく吊ってみました。



おーーっ、この涼やかな感じ、最高です。

中に入ると、かすかに草のにおいがして心が落ち着きます。

こういうものを、掘り出し物っていうんだなぁ~。

いやー、よかった、よかった。










2009年7月20日月曜日

アジアの中の日本 ≪続≫



ひきつづき、『帰化日本人』から印象に残った個所を書いていきます。

◎食

食事で面白かったのが、韓国、中国とも腹いっぱい食べるということが歴史上長年の夢だったらしく、

とにかくお腹いっぱい食べることが豊かなことだと考えていることでした。

だから両文化圏とも、「こんちには」の代わりに、「食事食べた」というあいさつをするそうです。

しかしお腹いっぱい食べてしまうと何もする気が起きないので、すぐれた文化が生まれにくいのではないかと語られていました。

本当にお腹いっぱい食べてしまったら、体は動かせないし、頭も働かないので、とにかく寝てるしかなく、確かに優れた文化は生まれにくいのかもしれません。

これもたまにならいいのでしょうが、豊かさ=腹いっぱい、と思っていると、経済的に許されるなら、毎日、毎食お腹いっぱい食べるようになるので、

たとえば歴代の中国皇帝の寿命は35-6歳だったというのはすさまじいなと思いました。(単に食事だけが原因ではないでしょうが)

そういえば、インドでもつい最近まで、太っている女性=裕福、美しい、と思われてきたそうです。現在ではダイエットが流行ってきているそうですが。。。

それに対して、日本人は食に対してかなり淡泊らしいです。腹八分なんていうのは、彼らにしたら驚きだそうです。

また「食事を済ます」という表現があるように、食に対してガツガツしているのは、みっともない、はしたないという感覚があるそうです。

そういわれてみれば、「~を済ます」というのは、義務的なものをとっとと片づけてしまう時に使う表現で、なるほどねぇ~と思わされました。

いま海外で一番多いのは中華料理屋らしいのですが、

最近は日本料理が世界各地で人気があるそうで、世界的に健康志向になってきているなか、あまりヘルシーでない中華料理が衰退していくのではないかと述べられていました。

しかし、和食が中国に行くと、たとえばマグロの刺身なんかも、日本のように適量が皿に盛られるのではなく、食べられないほどの量が山のように積まれて出てくるのだそうです(笑)。

それが中国流のもてなしらしく、和食が中国で流行っていったら、もはや刺身や寿司に使う魚は全部中国に持っていかれてしまうだろうと述べられていました。。。 (^_^;

しかしこの章ではなかったと思いますが、中華思想、すなわち中国こそが世界の中心であるという考え方は相当つよいらしく、

朝青龍が台湾に巡業に行ったときに、中国人の記者から、おまえはモンゴル人なのに中国語しゃべらないのかといわれたというエピソードが紹介されていました。

記者といえばそれなりの教養があるはずなのに、モンゴル=中国の一部だと思っているのだそうです。

そのとき朝青龍がどういう対応をとったのか興味のあるところですが、

中国こそ、更には漢族こそが世界の盟主たるべきという考えを多くの中国人がもっているのだとしたら、

異民族に対し暴力をふるうことなどなんでもなのかもしれません。



◎風習

日本の文化はそうとう神道のアニミズム的なものの見方が影響をしているそうです。

物に魂がある、物に魂をこめるという発想は、彼らからすると新鮮に感じるそうです。

そういえば、かんてんぱぱの会長塚越さんが述べていたのですが、ある時期多くの会社が中国などに工場をもって生産コストを下げようとしたのですが、

共産主義の人たちは物を物としてしか扱えないので商品の質が落ち、これは単純にコストダウンにはならないのではないかとおっしゃっていました。

たしかに日本的な感覚で商品に思いを込めるという発想がないのかもしれません。そういう意味で、日本のきめ細やかなサービスは世界一だそうです。

そういえばインドを旅していて思ったのが、何かを買う時に、売り手が自分の商品をカウンターなどにバーンとぶっきらぼうに投げてよこしたりするので、??と思っていました。

彼らにしたら物はあくまで物なのでしょう。

しかしこれは、たとえば一緒にいた欧米人なんかに、いまのはどう思うか尋ねると、やはり違和感を覚えるらしいので、日本人だけの感覚ではないようです。

しかし逆にお隣のネパールでは、お金を渡すときなどに右手に左手を丁寧に添えて渡すしぐさが謙虚に見え、とても対照的で面白いのです。


◎夢

お三方の国々では、若者は大きな夢を語る、あるいは語ってみせるのが当たり前だそうで、

大統領になる、ビルゲイツを超える社長になるなど、というのだそうです。

一方、日本人は夢が小さいというか、とても現実的なのだそうです。

しかしそういう現実的なところから、地道にコツコツ積み上げ、結果的に大きな仕事をなす人が多いのだと述べられていて、なるほど、そうかもしれないと思いました。


≪結論≫

以下本書を読んでの日本人の特徴を私なりに書き出してみると、

他のアジアの国々と比べ、日本人は和の国とよばれるように、やはり調和を重んじるというところがひとつの特徴のようです。

そこから思いやりなどもでてきているようです。

しかし逆に和を乱すもの、同質でないものに対しては、冷淡になり、それが差別などにつながるのではないかと思いました。

またアジアの他の国々のひとによる視点によって気付かされたのは、敗戦によるトラウマがそうとう残っているように感じました。

普段は意識しませんが、言われてみれば、日本の歴史の中で戦争に負けて占領されたことなどなかったのですから、相当な衝撃として残っているのでしょう。

そういうところから、自らの文化・歴史を自虐的にとらえる傾向が知らず知らずのうちに生まれ、また欧米に対するコンプレックスを生じるのではないかと感じます。


また神道のアニミズム的な世界観の影響から、物に魂を感じる、また小さいもの、小さい処に美しさを感じるのが特徴のようです。

日本人は感覚がとても繊細できめ細やかで、そういうところから物に魂を込めるような職人気質がでてくるのだそうです。

そのような職人気質による仕事が普遍性へとつながって、世界に通用する家電や自動車、アニメなどが出てきているのだそうです。

しかし日本人は小さいところ、目の前のことに打ち込むのが得意な一方、

ものごとを時間的、空間的に大きくとらえるのが不得意なのではないかと感じました。

そういうところからも、外交下手などがでているような気がします。


この本は、対談本ということもあって、どんどん読め、

またアジア近隣諸国から日本人に帰化した人たちによる鼎談という異色の視点を提供しており、とても面白かったです。

また本書の前にもこのお三方で出した本『売国奴 』というのがあるそうなので、そちらも機会があったら読んでみようかなぁと思いました。


おしまい。


参考:
参考:黄 文雄、石 平、呉 善花 (著)
帰化日本人―だから解る日本人の美点・弱点李白社 (2008/11)

黄 文雄、石 平、呉 善花 (著)
売国奴
ビジネス社 (2007/10/12)

2009年7月19日日曜日

アジアの中の日本




帰化日本人―だから解る日本人の美点・弱点


最近この本を読みました↑

私は以前から、アジアの中にある日本が、他のアジアの国々とどうちがうのか、どのような特徴をもっているのかと疑問を持ってきました。

というのも、日本と西欧の違いというのはとても際立っていますが、アジアは色々な意味で近すぎてよく分からないとうのが実感でした。

またアジアの近隣諸国が、かつて日本が侵略していったにもかかわらず、若い世代などでは日本ブームになっていたり、

また中国や韓国の振舞いに理解に苦しむものがあったりして、これはいったいどうなっているんだ?と常々疑問に思ってきたからです。


アジアの近隣諸国との違いを知ることは、また日本人として育ってきた自分を知ることにつながるのではないかとも思うのです。

つまり日本人として育ってきた中で、あたりまえと思ってきたことが、実はそうでないということに気づかされることがあるのではないか、とそんな気がしていました。


本書は、中国、台湾、韓国から日本に帰化した3人の知識人による鼎談で、それぞれの国の実情と、それぞれの国の立場から見た日本が語られていて、とても面白かったです。

結論からいうと、日本はアジアの中において、色々な意味でまあまあバランス良く、いい感じなのではないかという気がしました。

また他の国々は、日本であたりまと思っていたことがそうではないことが多く、かなり不自由かつ情報が制限されていて、ある意味洗脳に近い事が行われているのかなと感じました。


本の内容は以下のような項目でした↓






以下、上の目次の内容に沿って、私が感じた事を書いてみたいと思います。


◎マスコミ

3人の著者の方々の国では、マスコミが自分の国を批判することはタブーだそうで、

日本のマスコミが政権の批判を自由にしているというのが驚きだったそうです。

またそれぞれの国のマスコミのほとんどが情報操作をされていて、公平な報道がなされないのが当たり前だそうです。

アジアに民主主義が浸透しつつあるといっても、言論の自由が保証されていず、民主主義といってもその形態はさまざまなんだなと思わされました。


また日本のマスコミは、彼らからするとかなり自虐的で、日本が悪い、日本が悪かったという姿勢に傾きがちであるそうです。

また報道の仕方が、他の国々とみんな仲良くしましょうという雰囲気を醸し出しているそうで、

そういう意味で少し現実の認識とずれているのではないか、と指摘されていました。

これはとても日本っぽくて、面白いと感じました。

同時に、日本の外交はもっとしたたかであるべきだと言われていましたが、

これは和を重んじ、お人よしすぎる日本人の性なのでしょう。

日本に帰化した彼ら外国人たちから同情されているのだから、よっぽど外交下手なんだろうと思います。


◎教育

やはりこれに関しては、反日教育というのが凄まじいらしく、客観的な歴史であろうという姿勢に欠け、

日本がいかに極悪な国であったかを強調するようなストーリーに仕立てられているそうです。

そしてそのようにを仕立て上げる事で、団結をはかろうとしているのだそうです。

だから内政がうまくいかず、現政権に批判が出そうなときは、世論の反日感情をあおって、国民の目を外に向けさせようとすることが現在でもしばしばおこなわれるそうです。


また日本の教育に対する提言として、戦後教育以後なくなってしまったエリート教育というのが必要なのではないかと指摘されていました。

戦前の日本人には高潔な人物が多かったと一様に高く評価されていました。

エリート教育の必要性に関しては、前にも取り上げた数学者の藤原正彦さんも指摘していた事なのですが、

圧倒的な大局観公に奉仕するという気概をもった優秀な人材を育てる必要があると述べられていました。

現在の官僚主導の政治、自分たちにどうやって権益を集めるかに奔走している人たちを見ていると、

エリート教育というか、公に奉仕する気持ちをどう育てるかということが大事なように思います。



◎道徳

アジアは儒教の教えを共有していますが、道徳教育は外から与えられると、形だけになりがちで、道徳心が育たないのだそうです。

そういう意味で、中国数千年の歴史は、儒教のような道徳教育では人間を良くしないという失敗の良い例だと中国人そのひとが述べていたのには驚かされました。

韓国でも儒教が重んじられ、礼儀がたいへん重視されるらしいのですが、反面、詐欺などの犯罪が異様に多く、日本の数十倍なのだそうです。

それでは儒教の影響を受けている日本はどうかというと、

日本人の道徳の規準は美的感覚にあるのだそうです。

人に見られて、みっともない、というのを嫌うそうで、これはアジアの中でも特異なことだそうです。

臨床心理学者の河合隼雄さんも指摘されていましたが、日本人は「汚い」という表現を使います。

これは欧米流のフェアー、アンフェアーとはまた違った判断基準で、いくらルールにのっとっていても「汚い」のはだめなのだそうです。

また日本人はそのような美的感覚に基づいて、内発的な道徳心をそだてているそうで、これは神道武士道に由来すると述べられていました。

内発的な道徳心かぁ~、へぇ~と思わされました。

聖書の中に、祈りはわざと人に見られるようにするのではなく、人が見ていない部屋の中でしなさい

というキリストの言葉がありますが、

私はそれを読んで、なんだそれ?って思ってしまいました。

外から押し付けられ、形を重視する儀礼的な道徳教育がなされると、

人に見られていなければ何をしてもいいのだということになり、逆に犯罪などが増えるそうなのです。


私は道徳教育でもっとも大切な視点は、臨死体験者が述べるている視点だと思います。

人は死後、自らの人生を振り返る体験をするそうなのですが、その中で相手の立場に立って再体験しなければならなくなるのだそうです。

もし自分が相手に不快なことをしていたら、その不快感を味わわなければならず、これは相当つらい体験なのだそうです。

キリストは、自分がしてもらいたい事を人にしなさい、と述べ、

孔子は、自分がして欲しくない事を人にしなさんな、と述べていますが、

ともにこれは「死」という視点からみたら当然で、結局自分が苦しまないため、自分のためであります。


これは必ずしも人間だけでなく、

たとえば臨死体験者であるダニオン・ブリンクリー氏は、羊を虐待している現場を目撃して、その虐待している人を殴り倒して、羊を解放したことがあるそうなのですが(笑) 、

臨死体験の中で、その解放された羊が感謝しているのを感じたと述べています。

つまり動物を虐待すれば、その動物が感じていたことをその動物の立場に立って再体験しなければならいそうです。

こういうところから、インド哲学でいうところのカルマが発生して、次の生に影響を与えるのでしょうが、

そこまで述べなくても少なくとも臨死体験者は、共通して死後そのような体験をしたそうだという知識をもっていれば、

自らの行動も内発的に相手を思いやる方に向くのではないかと思うのです。

これがもっとも単純で理にかなった道徳教育だと私は思うのです。



つづく、、、




参考:

黄 文雄、石 平、呉 善花 (著)
帰化日本人―だから解る日本人の美点・弱点
李白社 (2008/11)


2009年7月17日金曜日

超蒸し技で野菜を頂く



先日のNHKためしてガッテンで湯治宿に伝わる秘伝の調理法として、野菜がおいしくなる蒸し方を放映していました。

今晩のおかずの小松菜を早速この蒸し方で調理してみたのですが、

本当にシャキッシャキッになり、しかも味が普通にゆでた時より格段においしくなっていて、とても驚きました。


要は、従来のようにふたを完全に閉めて100℃近くで蒸すのではなく、

ふたを浮かして70℃前後で蒸すのがコツだそうです。


番組では、いろんな野菜をこの方法で蒸して冷蔵庫で保存しておき、

あらゆる料理に使い、しかも調理時間が数分というのを紹介していました。


これは、本当にすごい、画期的なワザです!!

私は野菜は基本“”ですが、ちょっといろんな野菜をこの方法で調理してどんな感じになるか実験してみようと思ってます。

とりあえず、明日あたりはトウモロコシを買ってきて、この超蒸し技で調理してみようと思ってます。




参考:

NHKためしてガッテン:湯治宿秘伝! 常識逆転 蒸し技スペシャル
http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20090715




2009年7月16日木曜日

『葉隠』 ~その他もろもろ



『葉隠』について何回か取り上げてきたので、その他面白かった記述を二つほど挙げておきます。

まずはコレ↓






一息を4秒とすると、七息というと28秒、約30秒のうちに結論を出せということですよね。

武士は一瞬の判断で生死を分かつことがあるから、普段から直感を大事にしていたのでしょう。


しかし今の教育では、「よく考えなさい」なんてことが言われますが、

30秒のうちに結論を出して行動せよ、というのは面白いなと思います。

そういう教育を受けてきたら、どのような人間に育つのだろうかと想像してしまいます。

案外「よく考えなさい」といわれて育てられた人より的確に行動出来るのかもしれません。


もう一つ、面白かったのがコレ↓





武士は死ぬ事と見つけたり」なんて勇ましいことを言っていいる常朝さん、

実はぐーぐー寝るのが好きだったというのは、結構笑えました。

またこういう事を素直に書いているところも好感が持てます。

この「やりたいことをやれ」という思想は、前にも取り上げた、兼好の「つれづれ」の思想にも通じます。

道は違えど、それぞれの道を極めていくと、

今、ここを、楽しむ

というところに収斂していくのかなという気がします。


私は大学の授業で、宗教学者のカール・ベッカーさんの講義を受けた事が有るのですが、

彼が余談で話していた事に、「急がない」というのがありました。

ベッカーさんの友人が、生活のあらゆる面で「急がない」ことに注意しただけで、とてもゆったりとした穏やかな人間になったという話でした。

急ぐというのは、「いま、ここ」に満足が有るのではなく、

何かを達成した先に満足があるという心境に駆り立てられている状態です。

確かに急ぐ必要のある場合もあります。

しかし、基本を「急がない」という事にしてみると、今に心が定まって、いまここを楽しめるようになってくるように感じます。

逆に基本を「急ぐこと」にしていると、ろくなことが無いなというのが私の実感です。

私はDSの脳トレが好きで、結構いいタイムを出そうと張り切る事が有るのですが、

早くやろうとすると、かえってミスが多くなり、心も落ち着かない感じになります。

しかし丁寧に正確にやろう、という気持ちでやると、案外いいタイムが出たりするのです。

私の中では、

「急いでやる」= 「ろくなことが無い」

という黄金の方程式が成立したのであります。

先週のニュースで、JR尼崎の事故で社長が在宅起訴されたという報道がありましたが、あれも結局は「急ぐ」ことによって発生した事故でありました。

あのような重大事故をピラミッドの頂点であるとするなら、そのすそ野に重大事故になりそうだったけどならなかった、いわゆる「ヒヤリ、ハット」が何十件もあったはずで、

その「ヒヤリ、ハット」の時点で十分対策をとっておくべき事でした。

このようなことは「失敗学」として体系化されているのですが、

あそこで「急いでいた」のは、運転士だけでなく、また社長やJRという会社だけでもまなく、私たち一人一人が急がせた結果だと思います。

もしかすると、社会全体が「急ぐことによってどういうことが起こるかを象徴的に示してくれた事件ととらえべきなのかもしれません。

そして「急ぐ」というのはまた、数字に振り回されていると言う事でもあります。


何かの先に満足があるという生き方をしていると、それを達成した一瞬のでしか満足を味わう事が出来ませんが、

今を楽しむ、過程を楽しむことができれば、線で満足を味わう事が出来ます

我々には常に、「今」しか与えられていないわけだし、「急ぐ」のではなく、

やはりこの「今」を如何に楽しみ、味わうことができるか、というのが人生を楽しめるかどうかのカギになるのかなという気がします。


いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。

一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。


エッケルマン『ゲーテとの対話』



参考:

黒鉄ヒロシ『マンガ日本の古典 26 葉隠』中央公論社 1995

和辻哲郎校訂 古川哲史校訂『葉隠 上・中・下(岩波文庫)』岩波書店 1982

エッケルマン『ゲーテとの対話

畑村教授の失敗学に関する著作

カール・ベッカー氏の著作




2009年7月15日水曜日

お酒 ~その3~



前回、お酒のカロリーについてのことを書きましたが、

先日ネット上のニュースで次のようなものがありました。

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粗食は長寿、がん・心疾患・糖尿抑制…サルで実証


 カロリー摂取量を大幅に減らすと、がんや心疾患、糖尿病など加齢に伴う病気の発症を抑えられることが、アカゲザルを使った20年間の追跡調査で明らかになった。

 霊長類で、こうした効果が実証されたのは初めて。米ウィスコンシン大などのチームが、10日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 チームは、7歳から14歳の大人のアカゲザル(飼育下の平均寿命27歳)を30匹使って、1989年に研究を開始。94年には46匹を追加した。

二つのグループに分け、片方のカロリー摂取量を30%減らし、血圧や心電図、ホルモン量などを測定。死んだ場合は、解剖で死因を詳しく調べた。

 カロリー制限しないグループでは、5匹が糖尿病を発症、11匹が予備軍と診断されたが、制限したグループでは兆候は見られなかった。

がんと心疾患の発症も50%減少した。また、は加齢とともに、萎縮(いしゅく)することが知られているが、制限したグループでは、運動や記憶などをつかさどる部分の萎縮が少なかった

 白沢卓二・順天堂大教授(加齢制御医学)の話「カロリー制限が、長寿や高齢者の認知機能維持にも役立つ可能性を示すもので、大変興味深い

(2009年7月10日14時24分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20090710-OYT1T00650.htm

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やはり昔からいわれているように、腹八分がいいのでしょうね。

しかしいままでお腹いっぱいたべていたのを腹八分でおさめるというのは、なかなか難しいように思います。

そういった場合はどうすればよいのでしょう、、、

私は次の順で効果があると思います。

菜(繊維質)を多く取る。

(特に夏は暑いので生野菜をたくさんとるのがいいみたいです。あとはみそ汁にいろんな野菜を入れたり。また前にあげたオカラを食べるようにすると、腹もちが極めてよいです。あとは玄米とか。

最近教えてもらったのですが、エリンギとナスを細長く切ってごま油で炒め、醤油1お酢2酒2で少し蒸すと、超カンタンで極めておいしい一品ができることを知りました。適度な酸っぱさが暑い夏にぴったりです。)

② 肉・乳製品を魚や大豆にする。

(動物の体温は人間より高いので人体では動物の脂は固まる傾向にありますが、魚の脂は人体内でさらさらです。前にも取り上げたように、魚は脳にも良いようですし。

また牛乳のかわりに豆乳にするという手もあります。牛乳の弊害は何度もとりあげてきましたが、豆乳にカスピ海ヨーグルトの菌を入れるてつくると、クリーミーでかなりおいしいヨーグルトができます。自宅で何度も作れます。)

③嗜好品・加工食品をへらす

(お酒や砂糖菓子、パン、揚げた物などを毎日はとらないようにする。食事は楽しむためにもあるので、こういうものはたまに食べて幸せを感じる程度がいいのかな、と私は考えています。)


肉食に関して、

先日私がよくみる船井幸雄さんのHPに次のような文章が掲載されていました。

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肉食は健康にも悪いばかりか、地球環境にも重大な影響を及ぼしているということを、子供たちに判りやすい言葉と表現で教えれば、

この授業をきっかけに肉を食べるのをやめる子も多いだろう。母親たちも、あえて肉を食事に盛り込むことは控えるだろう。 

スーパーなどで食肉商品として陳列されてしまうと想像もつかないが、牛豚の処理の仕方は極めて残酷なものだ。 

牛の場合は、まず「電撃銃」で眉間を撃って気絶させる。次に針金を差し込んで脳細胞を破壊してから首を切り、放血させる。

この時点では牛は死んでいない。心停止が起きてしまうと、血液の循環が止まって放血ができなくなるからである。

牛は数も少ないし暴れると大変だということで気絶させてから放血するそうだが、豚は数が多いので気絶すらさせないという。殺される時にはものすごい叫び声をあげるそうだ。 

平成15年度の推計によると、一年間で殺処分された犬猫の数は約44万匹だが、それでもひと頃よりかなり減ったらしい。実験用に払い下げられる犬猫の数も激減し、平成18年にはついにゼロになったと言われている。ただし、動物実験が廃止されたわけではもちろんない。 

実験に使われる動物たちの場合、むしろ食肉に回される動物たち以上に地獄的な苦しみを与えられると言ってよい。人間の勝手な都合による医学的データ(しかもほとんど何の意味も持たないという)のため、今日もモノを言えない動物たちが悲鳴を上げている。 

子犬の足を繰り返しハンマーで殴って打ち砕くという実験もあるそうだ。「心理的ストレス状態を引き起こすため」だという。両目をえぐり取り、動かぬように固定した猫に、死ぬまで脳に電気ショックを与え続け、「神経の反応を調べる」という実験もある。こうしたことが、医学の名のもとに行われていることを、ほとんどの国民は知らない。 

ここで言いたいのは、こんなことをしていては、「ミロクの世」など永遠に来るわけがないということだ。命ある動物を人間たちの都合で大量に殺戮(さつりく)しながら、精神性の高い、平和で住みよい社会づくりをしようとしても、上手くいく道理がない。 

「国家の偉大さや、道徳的水準は、その国で動物たちがどのように扱われているかによって判断できる」 インド独立の父、マハトマ・ガンジーの名言である。 

動物の扱われ方という観点から見ると、今はむしろ日本より欧米の方が進んでいる部分もある。日本はその意味で、「道徳的水準が低い」どころか「後進国」である。

私には、最近起きているBSE、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザといった一連の騒動が、人類に早急な気づきを促しているように思われてならない

船井幸雄のいま知らせたいこと2009年7月10日
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200907003


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どこまで本当なのかわかりませんが、かなり真実に近いのではないかと思います。

前にも何回か取り上げた、食に関する名著『エコロジカル・ダイエット』でもこのような動物に対する扱いがたくさん書かれています。

また、たとえば人が赤ちゃんを抱くだけで、人体内に癒しのホルモンが分泌されるそうですが、

動物を食肉にするために残虐な殺した方で処理した場合には、当然それに対するホルモンが血液に分泌されるわけで、

その肉を食べた人間が、精神的、肉体的になんの影響も受けないと考える方が難しいと思います。


最後に、スピリチュアルの視点から、前にもあげた
ルドルフ・シュタイナーの肉食と飲酒に関する見解を再び引用して締めくくりたいと思います。

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酒は脳に作用して、霊的な器官を破壊し、修行が不可能になるので、酒類は一切禁じる。

肉食は禁じないが、肉食をしないと低次の性質との戦いが容易になるので、肉を食べないほうがよいということに注意するように

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2009年7月14日火曜日

お酒 ~その2~



アメリカではかつて、お酒を製造・販売することが違法である時代がありました。

日本ではお酒を飲んでも、タバコを吸ってもOKですが、大麻は犯罪となります。

大麻は覚醒作用とともに中毒性もあるそうですが、大麻を容認しようとする運動もあるそうなので、それほど深刻なものではないのかもしれません。

そういう意味でいうなら、お酒もタバコも中毒性があり、ガンや糖尿病などのリスクを高めます。

タバコが良くて大麻がダメな理由はなんなのでしょう。

そのひとつは税金に関係しているという話があります。

タバコは栽培が難しく、政府が管理し、国民を中毒にすることで大きな税収になりますが、

大麻をOKにしてしまうと、自宅などで簡単に栽培できてしまい、税金がとれないのです。

お酒にしてもだいたい発想は同じで、ある程度国民を中毒にしておいて、飲まずにはいられない状態にしてお金を吸い上げているのです。

思考形態はまったくヤクザそのものです。

そういう構造に早いうちに気づいておくと、やめようと思うけどやめられないといった事態に陥らなくて済むのですが、

こういうことをクリアーに説明してくれる人はあまりいないように思います。

というのも多くの大人はすでに中毒されてしまっている側にいますから、、、。


法律というのは遵守すべきものですが、単なるひとつの目安であって、合法だからいいというわけではなく、あくまでも自己責任です。

同様に、草なぎくんの事件のように、違法だからと容疑者、犯罪者呼ばわりするのもどうかと思います。

あの程度なら、社会の規範に十分許容される範囲内のことだと私は思います。

要は外的な規範に寄りかかるのではなく、ちゃんと目を開いて、一つひとつの物事を自分の判断でクリアーにしていくことだと思います。

それは飲酒やタバコに限らず、食べものや生活全般についても同じことで、

あたりまえと思っていたことが、実はそうでないことがたくさんあります。というか、ありすぎるように感じます。

そういう意味で私はなるべくたくさん本を読むように心がけ、別の視点、別の発想を知ろうと努めているのですが、

読みたい本がありすぎて、私の読書のスピードではなかなか自らの興味に追いつけないのが現状です。


本来哲学というのは、日常生活を送るなかでつい考えが近視眼的、惰性に流されがちになるのに対して、

その普段気づかない、あたりまえだと思っているところの思考に焦点をあて、

それを疑ってみる、再検討してみるというところにその本分があるように思うのですが、

どうも哲学というと、誰がああいった、彼はこういったという、日常からかけはなれたものになりがちで、

本来は凝り固まってしまった思考形態を打破して、自由になるためのものであるはずなのに、

逆にそういった権威のある知識で自らを固めて、束縛しまうもの、つまらないものになっているように思います。


しかしたまに立ち止まって哲学をしてみるということ自体は大切で、そのための視点、材料をこのブログで紹介していけたらいいな、と私は常々思っています。


今回取り上げたいことから話がだいぶ離れてしまいましたが、

お酒というのは、アルコールによる脳へのダメージのほかに、カロリーの過剰摂取にもつながります。

だいたい薬をはじめ、精製したもの=毒とおもって間違いないと思います。

たとえば日本酒は玄米から白米にし、その白米をさらに削った芯の部分のみを使って発酵させ、その上澄み液をとったものですが、

酔っ払うほどの日本酒の量を、本来のお米で取ったらいったい茶碗何杯ぐらいのごはんの量になるのだろうかと思うのです。

つまり本来のお米で摂取した場合ではとてもとれないほどの量を、

精製した液体にした場合は容易にとれてしまう、それも頭が麻痺して行くので、際限なくとれてしまう、という恐ろしさがあります。


同様に精製ということであげるなら、

ケシからとれるのがアヘンで、それを精製してくと、モルヒネ、ヘロインとなっていきます。

同じように精製して白い粉になったものを私たちはふつうにとっています。

それは白砂糖で、これも気分を良くする作用とともに中毒性があり、あまり摂取しない方がいいと言われています。

もし砂糖をつかうなら、あまり精製していない黒砂糖などの方がいいそうです。


麻薬には、コカインというのがありますが、あれはコカの葉を精製したもので、コカの葉自体にはほとんど覚醒作用はありません。

私がペルーを訪れた時に、これがコカの葉だといわれて食べてみましたが、ただ青くさいだけでなんともありません。

向こうでは、高山病に効くというわれるコカ茶や、コカの飴まであって、むしろ日本でいう緑茶みたいな扱いです。

緑茶も覚醒作用があり、何十杯と飲むと手足が痙攣してくるそうですが、

要は食べ物はなるべく精製したりしないで、まるごとを食べるというのがいいようです。

というのも、ある成分のみを精製すると、それだけが特化して、それまで全体としてまるくおさまっていたものが、激化して、薬効とともに、副作用がでてくるのです。

この薬の成分の抽出=精製は、科学の特質=専門・分化というのとパラレルで、

科学の抱えている問題をそのまま反映しているともいえるのですが、

これに関しては前にもとりあげたので、ここではこれ以上ふれない事にします。


話しが少しそれましたが、

現代人の食の問題は、その量と質から見直されなければならないと思いますが、量という面ではやはりとりすぎと言えるでしょう。

富栄養化した湖にはアオコが発生し腐敗臭がするように、栄養の取りすぎは、万病のもとといえるでしょう。

前回『葉隠』を取り上げましたが、著者の山本常朝さんは、現代の予防医学にも通ずる視点を指摘しています。







江戸時代にあっても、やはり医療は出てきた症状に対処するのが主であって、

その原因となっている食習慣などを改善するという視点は少なかったようです。


つづく、、、





2009年7月13日月曜日

お酒



祖母の葬式の後の会食で久しぶりにお酒を飲みました。

お酒を飲むと、その時は楽しくなりますが、あとで体はぐったりとし、思考も鈍くなるのでトータルで見るとあまり得した気がしません

アルコールは基本的に人体にとっては毒なので、水分をたくさんとらせて体から毒を輩出しようと一所懸命になっているのがよくわかります。

脳細胞もそうとう壊れるのではないかという気がします。

でなかったら子どもに飲ませても全然OKな筈だし、アルコール中毒の人の言動があそこまでくずれているはずがありません。

楽しい気持ちになるには、それなりの努力をして、それを達成したときに得る喜びはいいと思うのですが、

酒や薬を飲んだりして安易に楽しい気持ちになるのは、あとに何かしらのツケを払わされるので、

借金をして一時的な享楽にふけっているような気がして私はあまり好きではありません。

前に 糖尿病 ≪前編≫ で私が京都の旅館でアルバイトをしていたときに、

宴会にやってくる人たちが使った後のトイレに立ちこめる独特の甘い臭いについて書きましたが、

アルコールは脳へのダメージとともに、糖尿病のリスクをも高め、ひどい場合は手足の切断、失明につながります。


こういう諸々の事を考えて、私は普段お酒は飲みません。

お酒は、お祝いの席や、こういう集まりのときなどに飲む程度にしています。

その方がお酒のおいしさも味わえるし、意識の状態の違いもしっかり把握できるように思います。


飲酒に関しては、ふだんまったく飲まないか、度を超えて飲んでしまうか、の両極に分かれるように思います。

休肝日を設けながら適度に飲めるという人はほとんどいないのではないかという気がします。

というのも普段飲まない人は、別に飲まなくてもまったく欲しいとも思いませんが、

毎日飲む人は、飲まずにはいられなくなるし、もう少し飲もうかな、とずるずるっとその量が増えてしまう傾向にあり、

そこを適量に抑えるというのは毎回相当な意志の力を要するように思います。

しかも体もアルコールに慣れてくるので、気持ち良くなるための量が次第に増えていきます。

こういったことをトータルで見てみると、タバコと同じで初めから飲まないようにするのがベストだなという気がします。


ひとは頻繁に、他者に自分のイメージを投射することで満足を得ようとしますが、

若いうちにこのことに気づいていれば、大人っぽく見られたいために無理にタバコを吸ってみたり、酒を飲んでみたりしてアピールする必要もなく、

将来にわたってタバコやお酒に煩わされることもなくなるのですが、

そういう本質的なことに気づいていて、教えてくれる大人は少ないように思います。

(というのも当の大人たちが、そういう満足の型をもっていて、演じていること、とらわれていること自体に気づいていないから)


お酒を飲むと、理性のタガが外れてしまいがちですが、酒による失敗というのは昔からあったようで、

武士は死ぬ事と見つけたりの『葉隠』にもそんな記述がみられます。







江戸時代にも、酒を飲んでつい羽目をはずしてしまい、やってしまった、、

というということがあったのでしょうね。


つづく、、、



参考:

黒鉄ヒロシ『マンガ日本の古典 26 葉隠』中央公論社 1995

和辻哲郎校訂 古川哲史校訂『葉隠 上・中・下(岩波文庫)』岩波書店 1982


武士は死ぬ事と見つけたり↓


2009年7月8日水曜日

祖母逝く



父方の祖母が亡くなりました。95歳でした。

私と祖母は妙に気が合うところがあったので、よく一緒にいろいろな所にいきました。

近場では、家の近くの私のお気に入りの森林公園に梅や桜を見に行ったり、

まだサボテン園があった真鶴(マナヅル)を訪れ、

半島中を歩きまわり、ほどよく疲れた後に美味しい地元の鮮魚定食に舌鼓をうち、祖母の好きだった日本酒で一杯やったり、

丹沢の山に登っては、帰りがけに温泉につかったりしました。


私の学生時代は、一緒に四国の四万十川を見に行ったり、種子島屋久島をめぐったりしました。

屋久島では半日かけて線路の山道を延々と登り、縄文杉を見てきました。

祖母は当時80代で、周りの人はその年を聞いて一様に驚いていました。

(若者でもそうとうたいへんな山道でしたから)


祖母は当時の人としては珍しく、お茶の水を出ているインテリではありましたが、

どちらかというとアウトドア派で、歩くのをまったく苦にしない人でした。

若いうちから歩きまわっていたからなのか、年をとっても足腰はかなりしっかりしていて、

晩年も夕方は、一時間程海岸沿いを散歩していたそうです。


私と旅の道中などでは、祖母の若いころの話し、戦時中の話しなどをいろいろと聞きました。

あなたのお父さん背負って米軍の戦闘機の機銃掃射の中を走って逃げた話など、いまでは想像もつかない体験を色々聞かせてくれました。

代わりと言ってはなんですが、私は仏教の話し、臨死体験の話しなどをして、死んでも意識は続くみたいよ、、なんてことを話していました。

チベット死者の書で説かれている死の過程と臨死体験者が向こうの世界で体験したことが似ている話などをしたときは、かなり興味をもったようで、

自分で仏教関係の本などを買って、家で読んでいたようでした。


じゃあ、さー、もしおばあちゃん死んだら、やっぱ死んでも魂は残るってことを知らせに夢枕にたってくれないかなぁー、とふざけ半分に話していました。

祖母は、ああ、わかった、わかった、覚えていたらねぇーと笑って言っていました。

このたび祖母が亡くなったのは朝早くだったので夢枕には立ちませんでしたが(これから立つかもしれませんが)、

亡くなったと連絡を受けてから少し経って自分の寝室にふとんをかたずけに行くと、祖母がつけていた香水の匂いが部屋に漂っていました。

ああ、やっぱ来てくれたんだろうか、、

私は少しうれしくなりました。

こっちのことはもういいから、ちゃんと光に向かってまっすぐ歩いていってね、と念じました。

私が話した事が、死に際して何がしか役に立っていたらいいなぁ、、、と思ったのでありました。



合掌





2009年7月6日月曜日

生物の多様性〔4〕:映画『ガタカ』から考える




先日ガタカという映画を久しぶりにみました。




もう10年以上前の映画で知っている人も多いと思うので、簡単に内容を紹介します。

そう遠くない未来の世界において、

子供は受精卵の時点で、両親のもっとも「良い」とされる遺伝子の選択をうけて生まれます。

そうすることで先天的な障害や将来かかりうる病気を避け、知能指数が高く、あるいは運動能力にすぐれた子供が生まれるのです。


そんななか、主人公はそのような操作が行われない自然な受精によって生まれました。

このような子供をその時代においては、ゴッドチャイルドと呼ぶのだそうです。

ゴッドチャイルドである主人公は、どんなに頭脳がすぐれ、どんなに努力しても、

入社の際の遺伝子検査によってゴッドチャイルドである事が分かってしまうので、自分のつきたい仕事にはつけないのです。

そのような遺伝子による差別が公然と行われている社会において、

主人公は、ある裏の情報によって、極めて優秀な遺伝子を持ちながら、交通事故によって半身不随となった人物と取引をし、

その人物になりすまして、宇宙飛行士になるべく、その養成機関であるガタカに入社します。


血液検査、尿検査などでもつねに優秀な遺伝子をもつ人物のものを携帯して、パスしていたのですが、

ある事件をきっかけに一部の人たちに自分がゴッドチャイルドであることがバレてしまうのです。

その後どう展開するかがこの映画のひとつの見どころなのでこれ以上書きませんが、

このそう遠くない未来で行われている受精の時点における人間の選択は、

実はもうすでにアメリカなどで行われている事なのです。


そうすることで、先天的な障害や将来かかりうる疾患などを避け、「優秀」な能力を備えた子供をもつことができるのです。

しかし、これはあまりに安易すぎないかと思うのです。


前にアポトーシスのところでみたように、生物は不老不死と引き換えに多様性を選択しました。

つまり多様性こそ、人類が存続していく上での強みなのです。

しかしそれを目先の利益によって遺伝子をコントロールし、人間の中の多様性をなくすことは、

自分たちだけ良ければよいというある種のエゴであるとともに、

有性生殖をする生物が生き残りのためにとってきた戦略に逆行するもので、

人類の先行きを危うくしているように思います。


また地球上でも生物の多様性が急速に失われてきている現状を考え合わせると、

これはとても危機的な状況にあると見た方がいいのではないかと思うのです。


映画では、ゴッドチャイルドで知能的にも体力的にも劣る主人公は、

「優秀な」遺伝子をもつ人物たちが集うガタカのなかにおいても、超人的な努力により優秀な成績をおさめ、自らの夢を実現させます。

私が思うに、人間の優劣は、身体の完全さや、知能指数や運動能力などだけではなく、

むしろ欠けている部分があるからこそ、別の能力が飛躍的に発揮されるということがあるように思います。

先日の盲目のピアニストの辻井さんの演奏を聴いても、

多くの解説者は「目が見えないのに~」といういい方をされていましたが、

私は「目が見えないからこそ、あのような光が交差するような美しい旋律を奏でる事が出来る」といえるような気がするのです。

かつてナチスはユダヤ人やジプシーを大虐殺しましたが、同様に優秀な人種を生み出すために、精神障害者や身体障害者をも一掃しました。

「良い」遺伝子を選択して子供を作るというのは、このナチスの思想と基本は同じであるように思います。

しかしそのような良かれと思ってやった画一性の傾向が進んだ社会は、案外もろく崩れ去るような気がします。


私は欠けているからこそ素晴らしい能力を発揮するということが十分にあると思うし、

またその能力の発現というのが必ずしも目に見える形で誰にでも評価されるものであらわれるとは限らないように思うのです。


私が小学生のころ、知的障害をもった双子の姉妹をよく見かけました。

通りなどでも大きな声で話しあっていたりして、子供心にふつうの人ではないなと感じていました。

最近、図書館にいくと、その姉妹をよく見かけるのです。

頭に少し白髪も交じっていて、相変わらず大きな声で話しているのですが、

屈託のない笑顔を浮かべ、なにかその姉妹がいるところだけ周りとちがってパッと明るい感じがするのです。

借りている本を見ると、絵本や紙芝居のようでしたが、

その姉妹が本を借りる番になると、受付の人たちの表情や声が自然とやさしくなり、またそれを見ている人たちの顔もなぜかほころんでいるのです。

盲目のピアニストの辻井さんのように、世界的な名声を勝ち取るようなケースは極めてまれでしょうが、

このように知らず知らずのうちにまわりに良い影響を与えているひとって相当いると思うのです。

私は、社会にしろ、環境にしろ多様性を受け入れ、それを育む事がひとつの目標であり、それが結局は自分たちに帰ってくるという気がします。


さてさいごに映画の話しに戻りますが、

今回人に指摘されてはじめて気付いたのですが、エンディングが自分が思っていた(思いこんでいたもの)とまったく逆であった事に衝撃を受けました。

映画の最後で、主人公の姿と、優秀な遺伝子をもつ半身不随の人物の姿がパラレルに描かれているのですが、

半身不随の人物がゴッドチャイルドである主人公に勇気をもらって旅に出るというのが、

自分が思いこんでいたのとまったく逆の意味の旅立ちだったので、そのあまりのギャップにショックを受けました。


もし観ていない方、また一度見ていてもストーリーを忘れてしまった方、ぜひもう一度何かの機会に観てみてください。

新しい発見があるかもしれませんよ。





参考:

GOO映画:ガタカ
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD30818/




2009年7月5日日曜日

アゲハチョウ






けさ、朝食前に庭に出てみたら、大きなクロアゲが柚子の木の枝に止まっていました。

どうやら前に当ブログにご登場いただいた幼虫くん↓が羽化したようであります。




近くにはちゃんと抜け殻もありました。あの食事をしていた場所からすぐの所です。

どうやら、あの食事はサナギになるための最後の食事だったようです。




幼虫を撮影して以来、朝、庭に出ても例のパリパリとキャベツを食べるような音がまったく聞こえなくなり、

またちょっと葉っぱをどかしして、どこにいったのかな、、、

と幼虫くんを探してみたりしてたのですが見つかりませんでした。

アレ?、オレンジの角をだせとあまりツンツンやりすぎて死んじまったか?

鳥たちが庭にしょっちゅう来ているので、たべられちゃったか?

あのあとスズメバチが庭木のあたりをブーンとホバーリングしていたので、肉団子にされてもっていかれちゃったか?

などと心配していたのですが、どうやらうまく擬態してサナギになっていたようであります。

あの幼虫くんが無事こんな立派な蝶になったか、、となんか朝からうれしくなりました。




蝶になっても、また庭に遊びに来てねぇ~

( ^0^)/ ~~~




2009年7月3日金曜日

生物の多様性〔3〕:不死とアポトーシス



地球上の生物は、今から15億年ほど前まですべて不老不死だったそうです。




子孫は自らの単純なコピー、すなわち分裂によって自らとまったく同じ個体を生じさせていたそうです。(無性生殖)

しかし15億年ほど前に、性の違いによって次の世代の遺伝子に違いをもたせる戦略をとる生物が生まれたのだそうです。(有性生殖)




ひとつの遺伝子パターンのみであった場合、何かの病原菌や環境の変化によってその種が一気に絶滅してしまう可能性が有りますが、

遺伝子に多様性をもたせることで、そのようなリスクを回避しようとしたそうなのです。

そして性が生まれた事によって、遺伝子に死が組み込まれるようになったのだそうです。




つまり個の不老不死と引き換えに遺伝子の多様性という戦略を選択し、遺伝子を伝えた個は死ぬことになったということだそうです。

つまり長生きするとその間に遺伝子は傷ついてくるので、その遺伝子をもつ個体に寿命を設けたのではないとのことでした。


田沼氏の話によると、現在の多くの生物が有性生殖をとっているということは、

無性生殖よりも環境への適応と生存に関して有利だったのではないかとのことでした。


アポトーシスは、傷ついた遺伝子を消去することが目的ですが、

死によって生が維持されるという逆説的なシステムをとったということになります。


ここでもう一度アポトーシスの仕組みをみてみましょう。











このように、細胞内に前もって死がプログラムさせれているというアポトーシスの死生観は、

生物学を超えて様々な分野に影響を与えているそうです。

その一つが死生学で、



番組内で紹介された竹内整一氏は次のようにおっしゃっていました。

近現代の考えでは、今日より明日という進歩・発展に価値をおく考えできたので、

その価値にそぐわない死や老いは置き去りにされてきました。

しかしアポトーシスの死生観、すなわち死はすでにプログラムされており、

死によって生が維持されているというのは、日本の徒然草の思想にちかいのではないかとのことでした。





徒然(つれづれ)とは、基本的に今やりたい事をやるという意味だそうです。

アポトーシス、すなわち死がすでに生にプログラムされているということが示しているのは、

今日より明日ではなく、

今、ここを大事にするという生き方なのではないか、

とおっしゃっていました。


個体を構成するひとつひとつの細胞に死がプログラムされており、その集まりである個体にも寿命があります。

また人間という種にもいつか終りがあり、そして地上で生まれた生物、さらには今回のビックバンで生まれた全宇宙の生物にもいつか終焉がくるのでしょう。

そう考えてみると、今日より明日、明日よりあさって、という価値を常に先送りにする思考はとても空しく思えてきます。

しかし今やりたい事だけをやるというのでは、現実にこの体をもって生きていくには不可能なことです。

仏教的にいうと、心が未来への希望や心配ごと、過去への後悔やノスタルジーにながされ、とらわれるのではなく、

心を今、ここに住するようにするというのが、最大の目標であります。

ということは、未来に対する長期的な計画をもち、時に過去を思い返しながらも、基本は今を楽しみ、今を味わうということなのかという気がします。

このバランスがどちらに傾きすぎても心の平安は得られないのではないか、とそんな気がするのであります。


つづく、、、 のかな?



参考:

アマゾン

竹内整一氏の著作

田沼靖一氏の著作

徒然草 全訳注 講談社学術文庫 三木紀人

徒然草 第百五十五段 全文↓









生物の多様性〔2〕:不死とアポトーシス



原初の生命において、細胞は不老不死であり、寿命が無いと紹介しましたが、

なぜ生物の個体が死ぬようになったのかの前に、

細胞に組み込まれた死、アポトーシスとはどのようなものなのかを見ていきたいと思います。


従来の考えでは、細胞には次の2種類の状態しかないと考えられていました。

すなわち、ダメージが小さい時は修復して生き伸び、ダメージが大きい時は壊死すると考えられていました。






しかし細胞を観察していると、その中間あたりで細胞が消滅してしまうような現象がみられたそうです。




この現象がはじめて論文として発表されたのが、 1972年のイギリスだったそうで、





壊死とは違う、コントロールされた細胞の消去を、ラテン語の「木の葉が落ちる」と言う意味のアポトーシスと名付けたそうです。

しかしそのメカニズムは当時不明だったそうです。


最近の研究によって分かった事によると、死のプログラムが遺伝子そのものに組み込まれており、

その遺伝子が発動する事によって細胞自身が自らを消去しているのだそうです。




細胞が周りの細胞の状況や自らの状態から判断して、自らを消去することを決定すると、2種類の酵素が作られるそうです。




ひとつの酵素が細胞の骨格を切断し、




もうひとつの酵素がDNAを切断するのだそうです。




そしてDNAが外に漏れ出さないように、細胞壁などから小胞をつくってそれらを包み込むそうです。






アポトーシスの本質は、DNAを消去してしまうことにあるそうです。

こうして毎日ひとりの人間において3千億個、約200gの細胞が死んでいくそうです。

人間全体では250日ぐらいでほぼ全身の細胞が入れ替わるそうです。


ではなぜ原始的な細胞は不老不死なのに、進化に従って
細胞は寿命をもち、またそれを構成する個体にも死があるようになったのでしょうか。


つづく、、、