2009年6月4日木曜日

ザ・カップを観て≪最終回≫ 〔After Seeing The Cup - final -〕



さて、お寺でワールドカップ決勝をテレビ観戦している最中に、いかにもインドらしく停電が起こります。

僧侶たちは、

いつになったらインドは進歩するんだ?


といい、インドを訪れたことのある人なら、思わずにんまりしてしまうところなのですが、

そこで僧侶の一人が懐中電灯を使い、影絵でチベットの民話を話し出します。


一つめの話は、

あるところに男がいて、夢で恐ろしい怪物に出くわします。怪物はオマエを食ってやるといい、男はたいそうおびえてこう言います。

私はどうすればいい、と。そのとき怪物は答えます。

そんなこと知らんよ、これはお前の夢なんだから、、、。


二つ目の話は、ウサギの話です。

ある時ウサギが湖に行くと、そこに自分の姿が映っていたにもかかわらず、湖のなかに化け物がいたと報告します。

それをきいた友達のキツネが湖に行くと、湖の中にいたのは、シカ、アヒル、、


といっているうちに電気が回復してサッカー観戦が続きます。


映画の一番最後のシーンで新米の小僧が、

あの話の続きはどうなるの?

とそれを上演した僧侶に聞きます。するとその僧侶は、

話の結末はどうでもいいんだよ


といって映画は終わっていくのです。





話の結末はどうでもいいとは、どういうことなのでしょうか?

さらっと見ただけでは、影絵の話しは、ああそんなのもあったなぁぐらいにしか印象に残らないのですが、

この影絵による民話も実は深い意味をもっているのです。


ふたつの話はともに自分が映し出しているのにもかかわらず、

映し出されたものが自分と無関係なものであるとして、びっくりしているのです。

これは極めて仏教的な意味を含んだ話です。


というのもこの現象世界、浮世も私たちが映し出している大きな夢ととらえることができるからです。

この民話を聞くとバカバカしく思うのですが、

この地上に住んでいる人間の大半がやっていることは、おそらく民話に登場しているキャラクターたちが演じていることと大差がないと思われるのです。

この大いなる夢から目が覚めた人をブッダ〔覚者〕と呼ぶのです。

おそらく様々な文化に置いて、ブッダのように夢から目覚めた人がいたことだろうと思います。


さて話がそれましたが、

話の結末はどうでもいい


ということの意味はなんだったのでしょうか。

一つ目の意味は、

登場するキャラクターたちが、映し出されたものに惑わされているということ自体が話の主題である、

ということだと思われます。

そういう意味では、テレビ画面に映し出されたサッカーの試合も、映し出されたものに惑わされているという意味では同じなのかもしれません。

サッカー観戦中に停電によってあの話を挿入したというのは、そのような意図があったように思われます。


結末はどうでもいい、ということの二つ目の意味は、

結末に価値があるのではなく、ストーリーの中で色々と試行錯誤するところに面白さがあるということなのかもしれません。

この結末というのを、サッカーの試合における優勝カップ、この映画の主題である「カップ」に置き換えて考えることもできます。

すなわち、目的は勝って優勝カップを得ることにあるのですが、人々が引き付けられ、熱狂するのは試合そのものです。


したがって、私たちそれぞれが困難にぶつかっているときも、結果をあせることなく、困難自身を楽しみ味わいなさいというメッセージが、

あの「結末はどうでもいい」というセリフの中に込められているかなぁなどと想像するのです。。。


そういえば、エドガー・ケイシーがこの地上における最高の教えとしたインドのバガヴァッド・ギータの主題は、

結果を考えることなく、ただ行為にのみ専念しなさいというものでした。

結末はどうでもいい」というこの映画の最後のセリフは、

結果を期待することなく、今の行為に専念することの大切さを説いたのではないか、とも思えるのです。



それにしてもこの映画、表面はじつにあっさりしているのですが、まことに深い、深い映画なのであります。

まるで映画自体が禅問答のようなものでした。

そしてまた、映画に登場するヨーガ行者の存在そのものでもあるように感じます。

一見マヌケで飄々としていながら、実は深い見識をそなえていそうなヨーガ行者、彼がこの映画の本当の主役ではないかともおもえてくるのです。









さて余談になりますが、上の写真は、

私がこの撮影地ビル〔Bir〕を訪れ、あるチベット寺院にいってきたときに、そのお寺にかつていたあるヨーガ行者の晩年の写真だそうです。

慈愛に満ちたやさしそうな瞳がとても印象的だったのですが、

この映画を見た後、この写真のヨーガ行者とととても似ているなぁと感じました。

同一人物なのでしょうか。今度行ったときに確かめてみようと思ってます。




遺体は亡くなった姿勢のまま、このような箱に納められ、決して腐らないのだそうです。


それでは最後に、この映画のラストで語られる仏教の教えを載せておしまいにしようと思います。























































































































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