2009年6月30日火曜日

石器時代の人は、、、



昨日はブレイン・ルール




を紹介しましたが、

こんなゲーム↓ があることを知っていましたか?




実際、DSからこんなゲームは出ていません!

これは、ギズモードのフォトショップコンテスト、

数百年前にあったら大流行していたゲーム

として紹介されていたパロディーです。

この場合は石器時代にあったら、その時代の人類が遊んだであろうということなのでしょうか。

しかしこれを見て、石器時代の人と現代の人類を比べた場合、現代人の方が優れているといえるのかなと思いました。

確かに現代は、今までに文明が積み重ねてきた知識の量では圧倒的に多いでしょうが、個々の能力で比べた時どうなのだろうかと思うのです。

たとえば『ブレイン・ルール』の著者ジョン メディナ氏が述べているように、運動することによって大脳が刺激され、発達するなら、

石器時代の人の方が圧倒的に体を動かしていただろうし、

また現代のような利器がないので、自分たちで色々と工夫しなければならなかったわけで、

より健全に脳を使っていたのではないかと思うのです。


ネアンデルタール人は、直接のホモサピエンスの祖先ではありませんが、

ネアンデルタール人の脳の容量はホモサピエンスより大きかったそうです。

単純に脳の容積が大きかったからより優れていたとはいえませんが。。。


人間の賢さには、クレバー(clever)とワイズ(wise)があるように思います。

クレバーはどちらかというと小賢しい、ずる賢いという感じで、ワイズは智慧があるといった意味になるでしょうか。

ネアンデルタール人は、ホモサピエンスに駆逐されてしまったそうですが、

ネアンデルタール人は死者を花とともに埋葬するなどやさしい側面があったそうです。

もしかしたら、ネアンデルタール人はワイズではあったけど、

クレバーなホモサピエンスに圧倒されてしまったということは考えられないでしょうか。


たとえば、現代においても自然と調和していたネイティヴの人たちは、

圧倒的な暴力をもった文明人にことごとく制圧され、ある場合は完全に滅ぼされてしまいました。

もっとも近い例でいえば、精神性を重んじていたチベットは中国に侵略され、

チベットで暴動が起こると、内政干渉として制圧される状況にあります。


こういう歴史の流れを見てくると、ワイズな人たちはクレバーな人たちに征服されてきてしまったように思います。

確かに暴力に優ったならず者がいちゃもんをつけてきたら、服従するか戦って死ぬかの選択しかないように思います。

そうするとクレバーになればいいのかといったら、クレバーというのは最近のことでいえば、金融工学などを考え付いたような人たちで、

目先の利益には鼻が利く一方、長い目で見たら自分たちを蝕んでしまうようなことをやっているように思います。

やはりクレバーな人たちにも、より大きな展望をもつ真の賢さが必要だし、

ワイズな人たちも、クレバーな人たちに圧倒されないような、毅然とした態度がとれるような現実に即したクレバーさを身につける必要があるのかもしれない、、、

などと思いました。


しかしこれからは社会全体が単なるクレバーからワイズな方へとシフトして行くだろうという気がします。

これからどういう社会になっていくか、面白いなぁと思うのです。





おしまい。




参考:

Gizmodo Japan
http://www.gizmodo.jp/2009/06/post_5732.html


ジョン メディナ (著), 小野木 明恵 (翻訳)
ブレイン・ルール
日本放送出版協会 (2009/05)



2009年6月29日月曜日

視覚の優位性



7月のNHKラジオ英会話テキストに、またブレイン・ルールの紹介記事がありました↓





もう発売されているのに、まだ宣伝するんですね。

神奈川県内の図書館で検索してみると、何冊かあるみたいなのでリクエストしよと思っているのですが、

こういうDVD付きの書籍は、ちゃんとDVDも付いてくるのかなぁと少し疑問に思っています。

まぁ届いてみてからの楽しみですかね。


少し話がそれますが、

私は最近『そろばん入門』という本を読んで、

やっとそろばんで掛け算や割り算ができるようになりました。

そろばんをやると、指は使うしそれなりに頭も使うので、

やるとちょっと気持ち良くなるというか、少しハイな気分になります。


そろばんで足し算や割り算なら分かりますが、

掛け算ってどうやるんだろうと小学生のころから疑問に思っていたのですが、それがわかってすこし楽しい気分です。

そろばんをやって知ったのですが、にさん“”ろく、と、にごじゅう、と、

九九に“”がつくのとそうでないのがあるのですが、それは何のためか知っていましたか?

実はこれは掛けたあとの答えが一桁の場合に“”をつけ、そうでない場合はつけないという規則になっているのです。

どうもこれはそろばんで掛け算をやるときのシステムのようで、

答えが一桁のときは、“が”で右に一桁とばして珠をいれるためのもののようです。

へぇー、そうなのかぁと私はやっていて感動したのですが、

どうせなら小学生の時にそろばんをちゃんと教えてほしかったなぁと思うのです。


結局暗算というのは、頭の中で数字を画像にして解くわけですが、

この画像にするときに、そろばんをすぐに思い浮かべることが出来たらとても便利だろうなと思うのです。

そろばんの暗算が出来る人というのはそうするようですが、

あれは言葉と同じで、数をこなしていくと、慣れで自然に出来るようになるのではなないかと思います。

あれも人間にとっての画像の優位性
を利用したものなのだろうと思います。

そろばんで暗算が出来るようになれば、

インド人のように20×20までの九九を覚える必要はないし、応用範囲はほぼ無限です。

私は毎日5分ぐらいずつやって、

どのくらい暗算で計算ができるようになるのか、ならないのか、とりあえず続けてみようと思っています。


さてどうなることやら、、、。





参考:

アマゾン:『ブレイン・ルール


ブレイン・ルール、視覚について↓



彦兵衛のブログ:

ブレイン・ルール第一回、二回紹介:

画期的な英会話番組!

ブレイン・ルール第三回紹介:
ブレイン・ルール


2009年6月28日日曜日

ユトク伝を読んで





前から読みたいと思っていたチベット医学関連の本を最近やっと読み終えました↓



ユトク伝―チベット医学の教えと伝説 (岩波文庫)



ユトクはチベット医学の確立にかかわった医聖とも称される人物で、




享年は125歳(742-866)だったそうです。

同時代の人物としては、ティソン・デツェン王やゾクチェンの導師でもあるパドマサンバヴァ、大翻訳官ヴァイローチャナなどもでてきて

(空海の生没年も774-835ですから、ちょうど彼らと重なっているのです。これはとても興味深い点です)

面白かったのですが、

本の内容自体はユトクの出生前の家系に関わる話や、彼の伝説的な物語がほとんどで、

現代に生きる我々に生かせると思われるような記述はあまり見出せませんでした。


しかしそんな中で目を引いた個所がありました↓。

「われわれ医師は、患者の後生に役立つこともなすべきである。

だから死者を見送ることも、死にゆく人を迎えることもひつようなのだ。」
(p.423-424)

医者の役割は、確かに病を治すことですが、それでは病とはなんなのか

健康と病気をどこで線引きするのか、ということを考えたすと、とたんに分からなくなる難しい問題です。


前回書きましたが、は病気の症状の一つですが、

それでは体が病原菌に打ち勝つためにわざわざ体温を上げて熱を発しているのに、

それを下げることは治療と言えるのでしょうか。


それと同じことが病自体にもいえて、

病として表面にあらわれている状態を単になくしてしまうのが治療なのかといったら、

必ずしもそうではない場合もあるのではないかと思うのです。

ある場合においては、症状はそのままにしてでも、患者をやすらかに見送ることの方が大事な場面もあるのではないかと思うのです。

ユトクが行っていた医療は、単に病として表面にあらわれている症状を取り除くだけでなく、人間を全体としてみること、

そして人間の意識の永続性を視野に入れた、真の癒しだったのではないか、と思うのです。


現代の医療においても、ホスピスなど、単に病に打ち勝つことだけを目標としない医療が認められつつありますが、

やはり傾向としては、いかに病の症状をなくすか、というところに主眼がおかれているように思います。


ユトクの生涯を最後まで辿っていって感動したのは、チベットの偉大な聖者たちがそうであったように、

彼も虹の身体を得て逝ったということでした。

虹の身体に関しては、下の説明を読んでみてください↓




虹の身体(ジャ・リュ)を得るとは、死に際して、体の諸要素をその本源である光に溶け込ませてしまうことで、

あとには爪と髪の毛のみが残されるそうです。

このような死に方はつい最近までチベットにおいて報告されているそうです。興味のある方は、ページ下の資料を読んでみてください。


死に際して体を光に溶け込ませるのが虹の身体と呼ばれるものですが、もうひとつ「大いなる転移」と呼ばれるものがあり、

それは生きたまま肉体を自由に光の状態に変化させることができることだそうで、

このような状態を達成したのは、幾多の宗教的天才を輩出してきたチベットにおいても、

パドマサンバヴァヴィマラミトラだけだったそうです。


よくドラマなどで、私は~である前に人間である、といって人を救ったりする場面がありますが、

私たちは人間である前に光であるというのが真実なのかなと、こういう記述を見るにつけ思います。


だいぶ前に臨死体験者のダニオン・ブリンクリー氏の体験を紹介したりしましたが、

彼をはじめ多くの臨死体験者が向こうの世界で光の体験をしていることを見ると、

おそらく私たちの本質は光なのだろうなという気がします。


かつて人類は、地球は平らだと考え、太陽や星は自分たちのいるところを中心にぐるぐる回っていると考えていました。

しかし現在ふつうに生活していても、この見解をもったままで何の支障もなく生活できます

それでは支障がでるのはどういう時かというと、地球の裏側に行ったり、また宇宙に出たりする時で、

そのようなときに地球が平らであったり、宇宙の回転の中心が地球であるという世界観ではあまりに危なすぎます。


同じことがスピリチュアルの世界に関しても言えると思います。

私たちが生きている間だけがすべてであるなら、

べつに悟りがどうの、虹の身体がどうの、私たちの本質が光である、などといったことはどうでもいいことです。

しかし如何せん、私たちはこの体を離れ、この世から旅立たなければならない時が必ず来るのです。

おそらくその時に、少しでも向こうの世界に対する正しい知識があるかないかで、大きな違いが出てくると思うのです。

実際、ダニオン・ブリンクリー氏をはじめ、江原さんなど多くの霊能者と呼ばれる人たちも、その重要性を解いています。

少なくとも、死んだあとも意識が残るかもしれないなぁ~、という気持ちは持っていたほうがいいかもしれません。



さて、話がユトクのところから少し外れてしまいましたが、

最近はチベット仏教関係の本をあまり読んでいなかったので、久しぶりに読んでどこか新鮮さを感じました。

改めて最近のチベット仏教関係の本を調べてみると、知らないうちに下のような本が出ていたようです。



チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え






智恵のエッセンス―ボン教のゾクチェンの教え




これらはともにゾクチェンに関する著作なので、是非読まなくては、、、と思いました。




おしまい。




参考:

ユトク伝―チベット医学の教えと伝説 (岩波文庫)
中川 和也 (翻訳)
岩波書店 (2001/04)



チベットの精神医学―チベット仏教医学の概観 (単行本)
テリー クリフォード (著), Terry Clifford (原著), 中川 和也 (翻訳)
春秋社 (1993/12)


チベットの精神医学―チベット仏教医学の概観




チベッタン・ヒーリング―古代ボン教・五大元素の教え
テンジン・ワンギェル リンポチェ (著), Tenzin Wangyal Rinpoche (原著), 梅野 泉 (翻訳) 地湧社 (2007/08)


智恵のエッセンス―ボン教のゾクチェンの教え
シャルザ・タシ ギャルツェン (著), Shardza Tashi Gyaltsen (原著), Lopon Tenzin Namdak (原著), 森 孝彦 (翻訳), ロポン・テンジン ナムダク
春秋社 (2007/01)

ギャルツェン,シャルザ・タシ
1859年、東チベットのカム地方に生まれる。子供の頃より異常な才能を発揮し、9歳で僧になる。成就者テンジン・ワンギャルをはじめ24人のラマに師事し、密教やゾクチェン等を幅広く学ぶ。34歳で卍山に隠棲してボン教の修行に没頭。それ以後、終生、隠遁修行を続ける。その間、著作活動や弟子たちの指導を行い、1935年、76歳で虹の身体を実現して、遷化

ナムカイ・ノルブ リンポチェの著作

チョギャム・トゥルンパ リンポチェの著作


資料:虹の身体(ジャリュ)に関する記述

①ナムカイ・ノルブ著『虹と水晶』より







②ナムカイ・ノルブ著『ゾクチェンの教え』より



2009年6月27日土曜日

想念のパターン



昆虫などを見ていると、彼らは自ら考えて行動しているのか、

それとも単なる刺激に対する反射なのか、

どちらなのだろうと思うことがあります。

おそらく下等な動物になるほど反射の要素が強く、

人間の方に行くに従って、自由意思によって判断し行動しているものと思われます。


生命とはいったいなんなのでしょう?

生命と非生命を区別するのは実は意外と難しくて、

そのボーダーあたりには、生命とも非生命ともいえないものがたくさん存在しています。

思うに、生命というのは濃度みたいなもので、

ある意味ではすべては生命に満ち溢れているといえるのかもしれません。

インドの言葉に次のようなものがあります。

神は鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、

動物の中で歩きまわり、人の中で思考する、、、


こう見てみると、思考するというのは人間を人間たらしめている特徴なのかもしれません。


しかし人間も、自分自身を観察しているよくわかるのですが、ちゃんと考えているようでいて、

実は外的なイベントに対してかなり昆虫のような反射的な想念パターンで反応していることに気づくことがあります。


たとえば、前回書いたような、戦争の悲劇に対しては、悲しいという思いで無条件に反応し、

他のイベントに対しては、また別の型にはまった想念パターンで反応しています。


私が自らの想念パターンにとらわれていることに気づいたのは、

久しぶりにチベット語を学んでいたインドのダラムサーラ(Dharamsala)を訪れたときでした。

かつて訪れたときとは町の様子がだいぶ変わり

友達になった同年代のチベット人の友人たちは、みなヨーロッパやアメリカに行ってしまって誰一人会うことはできませんでした

あー、私がいない間にすっかりかわってしまったなぁ~

私はダラムサーラの坂道を登りながら、気が滅入ってきて、足取りが急に重く感じられました。

しかしそこで思ったのです。

変化するって悲しいことばかりか?なんでそんな落ち込む必要があるんだ?

変化するって有難いことでもあるのではないのか、変化するって楽しいこともあるではないか、、

と。

なぜ変わってしまったこと=悲しい、さびしいことと思う必要があるのか。

私はそこでかつて自分の師僧にいわれたことばを思い出しました。

どんな酷いこと、悲惨なことがあったとしても、まず


「あるがまますべてよし」


と言ってみるんだ。そうすると別の視点が見えてくる、、、と。


日本の真言密教において、森羅万象すべては大日如来のあらわれととらえますが、

このような尊格(ほとけさん)を専門用語では法身(ホッシン)といいます。

チベット仏教における法身は、普賢(サーマンタバドラ)で、

チベット語ではクンツサンポあるがまますべてよし、という意味です。

つまりあらゆる現象を「あるがまますべてよし」と観る視点は、如来の視点、悟りの視点なのです。

あれはいい、これはダメ、という心の作用は分別といいますが、仏教における目標は無分別の境地

すなわち、究極的にはすべては「あるがまますべてよし」なのであります。


ダラムサーラの町の変化に対して、私は悲しい、寂しいという反射的な想念パターンで反応し、

その結果自らの気分をブルーに落ち込ませましたが、

同じ外的な現象に対しても「あるがまますべてよし」という反応の仕方もあるのです。

そのことに気づいた私は、心の中で

「あるがまますべてよし」「あるがまますべてよし」

と心の中でいってみました。

すると町の変化、友人がここにいないことに対するポジティヴな側面が見えてきて、

必ずしも悲しいばかりではないなぁ、と明るい気持ちになり、視野が広がった気がしたのです。

そうか、日常のあらゆる場面で、私は似たような決まりきった反応の仕方をして、自らを限定していたのかもしれないなぁと気づくようになりました。


心の中で「あるがまますべてよし」といってみると、

それまでに気付かなかった物事の両面が見えるようになります。

あらゆることには必ず両面があります。

いいことばかり、悪いことばかりということはなくて、ものごとには必ず両面をもっています。

たとえば、病気になって熱がでるのは苦しくて嫌なものですが、これは実はとてもありがたいことなのです。

熱がでるのは生体の酵素の活動がもっとも働けるような最適温度に体をもっていって、

病原菌を退治するためであるので、熱が出ること自体は人体にとってはプラスなのであります(高すぎると脳細胞がダメージを受けますが)。

また病気になること自体も、つらいことではありますが、それによって体の免疫機能がアップするという作用があります。

このように、一見悪いことのように思うる事でも、必ずそこにはポジティヴな面があるのです。

だから、とりあえず「あるがまますべてよし」といってみると、今まで焦点をあててこなかった、そのものごとに関するポジティヴな側面が見えてくるのです。

そういうことに気づきだすと、一見いやなことに思えることも、それもいいことなのかもしれないそれも必要なことなのかもしれない、と思えるようになるのです。

先日のラジオ英会話「5分間トレーニング」の今日のメッセージで、

Mistakes are part of learning.

ということを言っていました。

とてもいい言葉だなぁと思いました。

一見間違っているように思える事も、大きな視点からみると、それもまたよしということになのだと思います。


人は、ある感情に浸りたいがために、外的な事柄を無意識のうちにひきよせるということがあるようです。

昔、アニメの銀河鉄道999の中で次のような話がありました。

ある惑星の住人は、永遠の命を得てしまって、人が死ななくなったために悲しむということがなくなったので、

その惑星に来た旅行者を殺して、葬式をして悲しみを味わう、、というものでした。

アニメだとへんてこな惑星だなぁと思うだけですが、これに近いことを人はかなり頻繁にやっているのかもしれない、、と思うことがあります。

心理療法の世界では、たとえば人がトラウマになるのは、何か原因となるイベントがあって、それによってトラウマになるという見方のほかに、

人がトラウマの状態になるために、外的なストーリを利用しているのではないかという説がありますが、この発想の転換は卓見であるように思います。


少し論点がずれましたが、

自分が浸りたいとおもっている感情のために、本当はもっと選択の余地があるのにもかかわらず、

自らをせまく規定するような反応の仕方をしてしまっていることがあるのではないか、と思うのです。

そのとらわれに気づくために、あらゆる場面において「あるがまますべてよし」と言ってみるのがかなり有効なのではないかと思うのです。


前に何かのこばなしで、「ありがたや八兵衛」だったか、そんな登場人物の話しを耳にしたことがあります。

この人は、とにかく何があっても、「有難い、有難い」というのだそうで、それによって何か面白いはなしが展開していったように思うのですが、詳細は忘れました。

このありがたや八兵衛のように「あるがまますべてよし」という代わりに、どんなことに対しても

有難い、有難い

ととりあえず言ってみるのもいいなぁと思うのです。私がやると「有難や彦兵衛」ですね。


スピリチュアルな世界には、波長の法則というのがあり、

同じような波長のもの同士は引き合うのだそうです。

だからいつも悲しい想いにとらわれている人がいたら、やはりそういう人同士が集まりやすいし、

また明るい人には、明るい人が集まってくるということが起こるそうなのです。

伊勢ー白山 道さん

が言うには、霊の世界にはより強烈に波長の法則が働いているので、神社などでも願かけなどはしない方がいいとアドバイスしています。

つまり、何かをしてください、してください、という想念は、そういう何かをして欲しいという存在をひきつけるのに対して、

ただ生きていること、生かされていることに感謝するだけにすると、そのように何かを与えようとする存在と引き合うのだそうです。

これは私たちが思っているのと逆で面白いなぁと思うのですが、向こうの世界はこのような力が働いているようです。


だから、あらゆることに対して「有難い、有難い」と思ってみることは、楽しい人生を送る上で肝要なポイントなのかもしれません。

ただしあまり口に出すのではなく、心の中に留めておくのがいいかなと思います。

人が死んだところで、「有難い、有難い」では皆さんに白い目で見られてしまいますからね。。。


でもたぶん人が死ぬのも、そんなに「不幸」なことでもないかなと私は思います。


誕生のときには、あなたが泣き、
全世界は喜びに沸く。

死ぬときには、全世界が泣き、
あなたは喜びにあふれる。


三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界
中沢新一 角川書店 p.159より





2009年6月25日木曜日

ことばと想い



今回のブログはぜひこの歌を聞きながら読んでください。

(本当は新垣勉さんの歌を探していたんですが、、、)


6月23日に沖縄で「沖縄全戦没者追悼式」が行われました。

その中で、小学6年生の比屋根憲太君がつくった「平和のいのり」という詩が朗読されました。

私は彼がその詩を朗読するのをニュースで聞いていましたが、

彼の想いがとても伝わってきて胸が熱くなりました。


そのあとには麻生首相による演説があったのですが、

あからさまに誰かがつくった文章をただ読んでいるという感じで、

全然想いが伝わってこないのです。

語っている内容は立派なのですが、その前の詩の朗読とのギャップがあまりにあり過ぎました。

ちゃんと自分のことばを語るって大事だなと思いました。


下に比屋根君が自らつくった詩の全文を付しておきます。

是非読んでみてください。


<平和のいのり(全文)>

石に刻まれた家族の名に

涙を落とす祖母

なんの形見も残っていない石に

声にならない声で

石をさすり

石をだきしめる

小さな声でとても小さな声で

「本当は話したくないサー」

少し首をかしげて

空を見上げる

人さし指の大きさの大きな傷

あごと左腕に残る


戦争の傷あと

祖母は傷の手当てをするために

水くみに行った

防空ごうに姉を残し 母と二人で

そのあとすごい光と音が…

そのまま姉はもどらなかった

「いっしょに連れて行けばよかった」

「ごめんね ごめんね」

と何度も何度も

きたときよりも

石を強くさすり

石を強くだきしめる

ぼくはもう声を上げて泣いていた

そして祖母の背中をずっとさすった

こんな青い空に

こんなおだやかな沖縄に

戦争は似合わない

祖母のくしゃくしゃな涙も

似合わない


そんな祖母はもう今は歩くことが

できない

毎日毎日空を見て

きっと

生きている喜び

生き残った悲しみを感じて

いるのだろう

ぼくは車イスをおして

祖母のいのりを引きつぐ

戦争のない平和な国を



参考:

琉球新報:詩を引用した記事
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146026-storytopic-7.html

琉球新報:ここに詩を朗読している動画がありました!
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-146260-storytopic-145.html

YouTube:宮古テレビNews沖縄戦全戦没者追悼式 01
http://www.youtube.com/watch?v=tNljvA0DT7E&hl=ja





2009年6月24日水曜日

どんな黄金に替えても、、、



まず最初に、ダージリン、ファースト・フラッシュのサンプルをお送りした方々への訂正があります。

今回お送りしたのは、スプーン大盛り2杯分の茶葉(約6g)なので、

カップ2杯分=300ccの熱湯を注いで頂くとちょうどよい味になります。

お送りした説明書きには、何を血迷ったか一杯分の150ccの熱湯を注いで、、、と書いてしまいました。

せっかくの紅茶がニガニガのニガヨモギになってしまったら申し訳ないと思い、

ここにお詫びして訂正させて頂きます。


m(_ _)m



さて、今日の話題はNHKの世界遺産への招待状という番組でやっていた内容についてです。

6/15に放映された

クロアチア:アドリア海の宝石巡り

という放送のなかで




アドリア海の真珠、 ドゥブロブニク旧市街という街が紹介されました。


ココ(Google Map)



そこの城門には次のようなことばがラテン語で刻まれているそうです。

NON BENE PRO TOTO LIBERTAS VENDIT VRAVRO



どんな黄金に換えても

自由を売り渡してはならない



ドゥブロブニクの人たちは、この言葉を胸に、

外交や貢物などをしながらも常に大国と対等に渡り合い自治を獲得してきただそうです。

なんだかすごく崇高な理念に、ついこの言葉を口ずさんでしまいました。


ドゥブロブニクには古くから歌い継がれてきた詩があるそうです。


麗しく愛しく
香ばしきかな自由よ

ドゥブロブニクの
ただ一つの印

すべての金銀
いかなる命をもってしても

自由の清き美しさには
かなうまい


う~ん、いい詩ですね。

なんでもお金が判断の基準になりつつある日本において、

一度問い直す必要がある命題であるように思いました。

このテーマを敷衍させると、

満足を目先の数字に置き換えてはならないということにもなるかと思います。


またこれは二宮尊徳が述べている、

遠きをはかる


という思想にも通じているように思います。

目先の利益よりも、ずっと先までを見越した満足を取りなさいという。。。


少し話しがずれますが、

先日のクローズアップ現代で、


“10歳の壁”を乗り越えろ
~考える力をどう育てるか~


というのをやっていました。

小学校四年生から五年生になると、学習につまづく子が急に増えるらしいのです。




とくに文章題などの考える問題になると、とたんに出来なくなってしまうのだそうです。

その理由として、最近はやりの単純計算による学習が挙げられていました。

これは
百ます計算と呼ばれるもので↓





このマスの中に、足し算なら上下のマスが交差する数字の足し算をやっていって、いかに速くとけるかを訓練するもので、

開発者の名をとって陰山メソッドと呼ばれるものです。

実際やってみるとわかるのですが、この百問の単純計算をすばやくやるだけで、頭がカーッとなるほど脳が活性化します。

難しい問題を解くよりも、単純計算を早くする方が脳は活発に働くそうで、

これをやらせていた生徒たちが一様にいい成績をとるようになったので、いちやく脚光をあびた学習法です。

しかしこれもあまりに速度だけを要求するようになると、ある児童などは次のような解き方をするそうです。





まずゼロの段をすべて上の数字から書き写し、

次に1の段、これはそのゼロの段に1足していくだけです。

次は2の段で、これも1の段に1を足していくだけです。

これをやると普通に上から解いていくよりも断然速いのですが、単なる単純作業で頭の訓練にはなりません。

よく考え付いたなぁ~と私は感心して思わず笑ってしまいましたが、

いかに速く解くかということだけを求めていくと、

結局このような本末転倒なことになってしまうのです。


なんかこの小学生が考え付いた解法と、今回の金融危機の原因となった金融工学なるものも、なんだか根っこが一緒のように感じるのです。

それは目先の数字にとらわれて、本質を忘れてしまっているというところにあるように思います。


時間やお金といった様々な数字を指標としながらも、

それに振り回されない、真の豊かさというものを求めていけたらなぁ、と私は思うのであります。


おしまい。



参考:

NHK世界遺産への招待状
クロアチア:アドリア海の宝石巡り

NHKクローズアップ現代6月18日(木)放送
“10歳の壁”を乗り越えろ ~考える力をどう育てるか~

ウィキペディア
百ます計算

彦兵衛のブログ:
数 〔Numbers〕

彦兵衛のブログ:
かんてんパパ塚越さんの経営哲学≪その壱≫


2009年6月23日火曜日

すごいぞ、クロネコヤマト!



最近、所要で宅急便規格より大きなサイズのものを送る必要があり、クロネコのヤマト便を利用しました。

サイズは100cm×70cm×45cmで、重さが約30キロ。

送り先は、
小笠原諸島です。

一応東京都なのですが本州からは約1000キロも離れているのです。

一体こんな遠いところに、こんな大きな荷物を送ったら幾らかかるかのかと、
神奈川発の運賃表を見てみると、

なんと東京に関しては、23区とそれ以外の区分しかなく、しかもそれ以外の方が23区より安いのです。

ということは、23区内に送るより小笠原に送る方が安いのか!?

それゃないだろう、、、とフリーダイヤルで聞いてみると、小笠原でもその料金だとのこと。

実際荷物を取りに来てもらい、払った料金はたったの1520円、本当に23区に送るより安く送れてしまったのです。

クロネコヤマト、なんと素晴らしい会社なんでしょう!

本当に感心してしまいました。

(そういえば、妹の所にかなり大きな雛人形セット数箱をヤマト便で送った時も、妙に安くて拍子抜けしてしまったのを覚えています。

しかも保険料50円払うだけで5万円まで保証してもらえるんです。こんなんでいいのかクロネコヤマト!スゴすぎるぞ!)


さて、私も普段クロネコはしょっちゅう利用させて頂いているのですが、

なんといっても使い勝手がいいのが、
クロネコメール便であります。

1センチの厚さまでなら、A4サイズ(角2号封筒)までたったの80円です。(重さ1キロまで)

これが
普通郵便なら、大きさは封筒サイズでしかも重さは25gまでです。

この差はデカイ

ヤマト運輸の懐もデカイ、、、(深いか)。


私はこれを利用させてもらって、只今ダージリンティー、ファースト・フラッシュを順次発送させて頂いてますが、


ファーストフラッシュサンプル350円【送料無料!】
おいしいよぉ~!



ホントに助かってます。


またこのメール便、厚さ2cmまでなら、A4サイズで160円です。

ダージリンティー50gパックを封筒に入れると、ちょうど2cm以内に収まるので、

3パックまで160円で送れてしまうのです。


しかし少しでも2cmにひっかかると、だめぇ~っと言われてしまうので(つきかえされたことも数回)、

コンビニやクロネコの店舗で使っている厚さ計りを自分でも作って、出す前に入念にひっかからないかチェックするのであります↓


左が2cm用、右が1cm用
(下の布地はペルーチチカカ湖で買ったもの)



しかしすこし大きめの茶葉のやつ(去年のでいうとSungma)はほんとうにぎりぎりだったので、

封筒に入れて、この計りでチェックしたあとも、店に出す前にちゃんとならしてから出していました。

今回のファーストフラッシュは、それほど茶葉の大きいものはないようで、少し安心しているのですが、、。


さて、今日は久しぶりにお日様がでたので、ダージリンティーのパッケージを撮り直しました。

なんせ暗いと、商品もなんかしょぼくれて写ってしまうので。

しかし今日はなんか妙にいい感じ(?)に撮れました。


























ちょっとは高級そうにみえるようになったかな?

今回は、パッケージのラベルのデザインも少し変え、ファーストフラッシュはすべて花柄に統一することにしました。

少しは美味しそうにみえるようになったかな?

どうぞ宜しくお願い致します。

m(_ _)m


あと追加ですが、現在サンプルを順次発送しておりますが、同封している文章に次の説明がない場合は、どうぞご注意ください。

※紅茶は光と空気にさらされるとすぐに味が抜けてしまうので、
封筒に入れたまま冷暗所にて保管して下さい。
(冷蔵庫には入れないで下さいね(^^)

私はダージリンティーの茶葉を、お送りしているサンプルと同じ透明なチャック付きビニールに入れた状態で、

常温日陰、冷凍庫の中、冷蔵庫の中、食卓の上

の四つに分けて1カ月半ほど放置し、味がどのように変わるか確かめましたが、

上の順番で味が保たれていました。

最悪なのが食卓の上に放置したもので、味と香りが抜けてしまい、まったくの別物になっていました。

ということで、すぐに飲んでしまえばそう気にすることもありませんが、

是非美味しい味と香りをそのままあじわって頂きたいので、できたら以上の点、ご注意くださいませ。



また飲み方ですが、5分ほど抽出して一回で出しきってしまうのではなく、一口二口分だけカップに注いで、

ポットの中に多少残して置きながら飲むのがオススメです。


日没の景色のように、お茶の味は時間の経過とともに徐々に深みをましてくるので、少しずつ飲むとその変化を味わうことが出来るのです。

この変化はとても味わい深いです。是非お試しください。

最後の一滴は、黄金の滴といわれるのもそのためです。


では、ダージリン、ファーストフラッシュ、心ゆくまでご堪能くださいませ。

失礼いたします。



m(_ _)m



2009年6月22日月曜日

おからを食べよう!



今回のエンヤはこれがいいかな。。。


なんちゃってヴェジタリアンの彦兵衛にとって、重要なタンパク源は大豆なのであります。

特に大豆は、煮豆をはじめ、納豆、みそ汁、豆腐、アゲ、、

といろいろなところでお世話なっているのですが、

もっとも安くて腹もちがいいのが、おからであります。


今週の水曜に、NHKためしてガッテンでそのおからについてやるそうです↓




これが放送されることによって、店頭のおからがなくなるんだろうなぁ、、、

その様子が目に浮かんできます。


だいぶ前には、納豆ダイエットだとかいって、店頭から納豆が消えたことがありましたが、

そのあり得ない光景を前に、

( ゜o ゜) メガテン、、

頭が真っ白になってしまいました。

玄米がいいとなると、玄米がなくなるし、まったくこれらを常食としてる私は本当に困ってしまうのであります、、、。


しかし世の中でダイエットというと多くの人が大騒ぎするようですが、そんなに難しいのかなぁ~といつも思ってしまいます。

運動と食事を少し見直すだけで体重を落とすなんてすぐできるのに、、と。

私は10代からずっと同じ体型を維持しており、最近は四股踏みを取り入れたため少し体重が落ち始めているぐらいです。

運動や食に関してはずっと関心を持ってきたので、

科学的なものから、スピリチュアル的なもの、すこしアヤシゲなものまで、

いろいろと自分の体で試し、自分に合っているもの、無理のないもの、やっていて心地よいものをずっと継続してきました。


私が思うに、多くの人はあまりに奇をてらった極端なダイエットに走りすぎるように感じます。

だから続かないし、効果がなく、また無理をしているからすぐにリバウンドしてしまうのです。


ダイエットをするなら、ちゃんと戦略をもってやるべきで、基本は下の三つに集約されるかと思います。

無理をしない(精神的にも、肉体的にも、経済的にも)、

自分のカタチをみつける(できたら楽しめるもの、少なくとも苦しくないものを取り入れる)、

継続する(無理のない自分のカタチを見つけられれば、自然に続けられる)

この3点に気をつけて日常生活におけるエネルギーの入出力食事と運動の習慣を少し見直せば、

体重は自然に落ちていきます。

1週間で何キロとかいう数字的なものより、自分の主観、自分がどう感じているかに重きを置くことが大切で、

そこに無理がなければ、体重は自然に落ち、体型もいつのまにか変わっていきま。

どこか無料のHPで、

彦兵衛の戦略的ダイエット


なるページを立ち上げようかな、

とか半分まじめに考えているのですが、、、、

世の中のダイエットを見る限り、あまりに一面的すぎるように感じます。


さて、今回のガッテンのテーマはおからですが、

ダイエットを考えている人にとっては、このおからを食べるようにするというのは、

とても理にかなった有効なオプションだと私は思います。

なんせ、大豆のカスだから栄養はあるし、繊維質はあるし、腹もちはいいし、おまけに安いし、

といいことだらけですが、やはり問題は調理にあるかなと思います。


そんなわけで、今回はおからのどのような調理法が紹介されるのか、

なんちゃってヴェジタリアンの彦兵衛は楽しみにしているのであります。


さて、今回の放送後、店頭のおからはどうなることやら、、、。



参考:

NHKためしてガッテン:おからについて




2009年6月21日日曜日

エルゴノミクス恐るべし! part.2



※よかったら
エンヤの歌をBGMとして聞きながらお読みください。


チャリダーである私にとって、自転車は自分の体の一部のようなものなのですが、

最近ハンドルグリップが劣化してきたため、そろそろ替え時かと思っていました。






劣化したゴムがはがれ出し、べたついて手にくっつくようになってきていました。

この際だから、前から少し気になっていたハンドルグリップにしようかな、

ということで買ったのがコレ↓


Locking Comfort by Specialized


グリップシフト(ギヤがグリップを回すことで変えられる)用のハンドルグリップであることとともに、

幅が広くなっていて、手のひらを置けるようになっており、これが乗車時にどれくらい手首への負担を軽減するのか試してみたかったのであります。


商品裏の説明書き↓




読むと、エルゴノミクスに基づいて設計されているとのこと。


スペシャライズドのHPに商品の説明がちゃんとありました↓


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Body Geometry Comfortグリップは全体的に設計が見直され、より効果的に手のしびれを和らげる新しいデザインとなりました。

ロッキングの仕組みも、ハンドルバーによりしっかりと固定ができるよう更新されています。

●人間工学の専門家、ロジャー・ミンコウ医学博士による医学的なデザインによって、サイクリングによるしびれと手の衰弱を防止密度の素材を使用

●主な接触部分には尺骨神経へのクッションとなる、特にソフトな密度の素材を使用

●中心部はハンドルバーに確実に固定ができる硬めの密度

●人間工学に基づく形状のプラットフォームで高い快適性

●確実にグリップの固定ができるロッキングクランプ


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さっそく箱から取り出してみました↓



このタイプで、ただハンドルにはめるだけのものもあるようですが、自転車屋さんのお兄さんによると、

固定してないものだと、体重の重みでダラーっと下がってきてしまうとのこと。



裏はへこんでいて、実際にお店で握らせてもらって、手に吸いつくようなフィット感が気に入ってこれに決めました。


さっそく交換の開始です。



まず古いのをズルズルと引っ張ってはずしました。

新しいものは古いものより少し長めだったので、ギヤとブレーキの位置を少し内側にずらし、

無事取り付けが終わりました↓





おー、なんだかカッチョいいぞ!








ハンドルグリップを変えただけなのに、自転車自体が少しグレードアップしちゃったような、、、。





実際にこれに付け替えてから走ってみたのですが、

すごくカ・イ・テ・キ!!

やはりちゃんと人間工学に基づいて設計されているだけあって、手にフィットし、

手首への負担を軽減してくれている感じです。

高速バスなどに載って、フットレストがあったときの居心地の良さと共通するものがあります。


古くなったハンドルグリップさん、どうも有り難う。どうか成仏してください、ナムゥ~、、、。





あ~、また自転車に乗るのが楽しくなっちゃいました。





さて、今度はドコヘイコ?




参考:

スペシャライズドHP:ハンドルグリップLocking Comfort
http://www.specialized.com/ja/ja/bc/SBCEqProduct.jsp?spid=33922


彦兵衛のブログ:エルゴノミクス恐るべし!
http://mshiko.blogspot.com/2008/11/blog-post_16.html