2009年4月20日月曜日

近所の神社をぶらり訪ねて



昨日は春のあたたかい日差しの中、自転車で買い物に出たら、なんとなく近くの神社に寄ってみたくなり、久しぶりに訪れてみました。





ここのお堂は結構古くて、


木の彫刻なんかも立派です。





玉砂利を踏みしめながら、お堂をぐるりと見て回りました。





ここは敷地にいるだけで、心が穏やかになっていきます。


私はお堂から見る


この景色が好きで、来るたびになんとなく足を止めて眺めてしまいます。

何がいいのかなぁと分析すると、たぶん樹があるからだろうなと思います。

それも普通サイズの木ではなく、聳え立つような大木があって、それが人の作ったものと調和して存在しているから、いいのかなと思います。


この神社を訪れたら、昔から烏森神社と呼んでいたところ(正式には皇大神宮といいます)にも久しぶりに行ってみたくなり、ついでにお参りしてきました。

私は巨木が好きで(トトロにでてくるような樹は最高ですが)、神社にいくと必ず巨木があるので、つい写真に撮りたくなるのですが、


写真で撮っても枠に収まらず、樹を撮るのって難しいなぁとつくづく感じます。(プロの方はどうやってとるのでしょうか)



この樹は烏森神社の社務所の隣にあったもので、幹から若芽がウワーっとたくさんでていて生命力を感じました。


前にこのブログで、奈良春日大社の神宮さんでいらっしゃった
葉室頼昭氏のことばを紹介しましたが、

神道の教えと言うのは、自然をお手本にしないさいということのようですね。

だから経典などが存在せず、敷地内には人間が手をつけてはならない鎮守の森が残されているそうです。

私は神社にある樹を見ていたら、何年か前にNHK『知るを楽しむ』でやっていた、宮脇さんの講義を思い出しました。

http://www.nhk.or.jp/shiruraku/old2/200506/monday.html

宮脇氏によると、ある場所に樹を植えるなら、昔からその土地にあった原始植生をもとにして樹を選び植えるのが一番で、それがホンモノの森になるといってました。

言われて見れば当たり前なのですが、その原始植生がどんなものであったかを都市化してしまった場所で特定するのが難しいのです。

しかし神社が鎮守の森を残しておいてくれたおかげで、その地域にもともとどんな樹が植わっていたかがわかるそうなのです。


自然に学びなさいという神道の教えは、単なる象徴としてだけでなく、実際の学問にも役立っているんですね。素晴らしい限りです。


私は前に天皇陛下の素顔を紹介していた番組について書きましたが、

天皇陛下はなぜあんなに偉ぶっておられず、いつも自然体な
のかなと不思議に思ったのですが、それはおそらく天皇陛下も神=自然を敬っているからなのではないかと思いました。

神社はその建物自体に権威があるのではなく、私たちが神聖なものとつながるための通路、大いなる自然を敬う事を忘れないための場所であることに価値があると思うのですが、

おそらく天皇という存在もそれ自体に権威があるのではなくて、その聖なるものの近いところで、その教えを代々守ってきたというところにその存在価値があり、

天皇陛下ご自身もそのことを認識されているから、あんなにも飄々としていらっしゃるのではないか、とそんなふうに感じました。

河合隼雄氏は日本社会の中空構造ということを指摘していましたが、それをもっとも体現しているのが神道なのかなという気がします。






烏森神社でお参りを済ませ、さて帰ろうかと思っていたところ、

境内の看板に下の張り紙がはってありました。


二宮尊徳の言葉でした。

今まさに大木を見てきたところだったので、含蓄のあるいいことばだなと感じました。

二宮金次郎については、近々アップしようと思っています。


おしまい。










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