2008年10月19日日曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その四

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本日NHKスペシャルで前回の後編となる番組が放映されます。

10月19日(日)午後9時~9時59分

世界同時食糧危機(2)食糧争奪戦 ~輸入大国・日本の苦闘~
世界各地で食糧の安定確保に向けての動きが加速している。大豆調達に苦しむ日本の味噌メーカー、ウクライナを舞台に繰り広げられる農地争奪戦などを通して、食糧輸入大国・日本の進むべき道を考える。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081019.html

また前回の放送を見逃した方は火曜の夜に再放送があります。

2008年10月21日(火) 深夜 【水曜午前】0時55分~ 総合

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/rerun/index.html


さて最近菜食についてのブログを書いているせいか、ふと英語のvegetableが何に由来しているのか疑問に思いました。単語の構成はveget が able するというわけです。調べてみると、ラテン語

vegetare (速める、元気づける)+ able(能力のある)⇒ 元気づける力のある

という意味であることが分かりました。
これはまさにシュタイナーが菜食にすると「人は活発になる」「疲れにくくなる」といったことと関連していて興味深いところです。昔のひとも野菜を食べる事で活力が得られることを実感していたのでしょう。

この語源からは他にvigor(活力のある)やvigil(徹夜)などがでているようで、特に最後のvigilの原義は「目覚めた」という意味なので、シュタイナーが菜食に対して「霊的なものに敏感になる」「ものをよく考えることができるようになる」「事物の壮大な関連を見上げることができる」と述べている精神的な「目覚め」とからめて考えると面白いと思います。

私自身の体験から、菜食にすると澄んだ活力に満ちた状態になるという感じがあります。特に暑い中でへばらなくなるので、こんな暑い中でどうしてそんなに元気なの?と聞かれることがあります。そういうとき私は

「惑星ヴェジータで育ったんで、、、あそこは重力が地球の10倍だったから」

と冗談をいいます(ドラゴンボールを知らない方スミマセン)。私がヴェジタリアンなのを知っているのでこのギャグはなかなか受けるようです。

余談になりましたが、今回シュタイナーの菜食観の最後として総まとめ的な記述を引用します。

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肉食は本能的な意志を燃え立たせるのが体験されます。無意識に情念と情動のなかを流れる意志のいとなみが、肉食によって燃え立たされるのです。ですから、好戦的な民族は平和を好む穏やかな民族よりも肉食を好むというのは、まったく正しいのです。菜食にすると勇気や活動力がなくなるのではないか、と思う必要はありません。肉食をやめることによって、本能や攻撃的な情念、情動を失いますが、それらすべては内面から魂によって補われます。(p.138-139)

肉食をすると、人間は地上に束縛されます。肉食をすると、人間は地上の被造物になるのです。「肉食の作用が身体に浸透すると、地球から解放される力を失う」と、いわねばなりません。肉食をすることによって、人間は地球と強く結びつきます。

<中略>

菜食にすると、人間を宇宙に結びつける力が刺激されます。植物を消化するときにおこなわれなければならないことが、太陽系全体に含まれている力を刺激し、人間の物質体は太陽系全体の力に関与するようになります。菜食にすると、物質体は太陽系から疎外されないのです。人智学的あるいは秘境的な修行を積んだ魂は、菜食にすると地上の重さではなく、惑星系の中心である太陽からなにかを受け取るのを体験します。菜食によって得られる身体の軽さが、地上の重さを取り去ります。

(p.140-141)

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参考:
ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月18日土曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その参

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今日知ったのですが、コンピューターの

「すべてのプログラム」→「スタートアップ」

のフォルダ内にコンピュター起動時に立ち上げたいプログラムのショートカットを入れると、それが自動で立ち上がるようになるんですね。ここにインターネットエクスプローラーのショートカットを入れておくと、すぐにネットが出来て便利になります。


さて、昨晩やっていたNHKスペシャル

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081017.html

の録画したやつを本日見ましたがとてもよくできていて素晴らしい内容だったと思います。これはちょうどいまブログで菜食のことを書いていることと重なるのですが、日本がいかにアメリカの政策によって肉・卵・牛乳を食べさせられるようになったかがわかりやすく説明されていました。

大きな流れとしては、

アメリカが大量の余剰穀物の処理に困る
→日本に肉、卵、牛乳がいかに健康にいいかを刷り込む、給食にパンや牛乳を主体としたものを導入する
→日本において牛、豚、鳥などの畜産が進む
→餌としての大量のトウモロコシを購入せざるを得なくなる

とこういう流れになっていました。そして日本のケースが成功例となって全世界にこの手法が適用され現在の世界的な穀物不足の状況を生み出すに至ったという訳です。

現在はちょうど中国で同じことをやっている映像が流されていましたが、小学校に筋肉ムキムキのお兄さんが来て、牛乳を毎日飲むとこんな体になるんだよ、という宣伝をしていました。

振り返ってみると、ここまであからさまな刷り込みを受けた覚えはありませんが、なんとなく「牛乳は体にいい、骨が強くなる、背が伸びる」などのイメージを知らず知らずのうちに先生をはじめとする周りから吹き込まれていたような気がします。この呪縛から解放されたのはひとえに『エコロジカル・ダイエット』を読んでからでしたが、こういういい加減なことが平気でまかり通っているというのは本当に驚きです。

なぜ牛乳を一番消費しているアメリカに骨粗鬆症が多いのか、あるいは肉食の量とガンの発生率の統計などをしっかり見ればいかにウソ情報に慣らされてきたかがよくわかります。

しかしNHKの番組を見ていて、ナレーションが

健康のバランスを保つために欠かせない肉や乳製品、卵などが高騰して云々、、

という説明をしていたのは可笑しかった。番組内でいかに日本人が刷り込まれてきたかを説明しているのにも関わらず、あたかも肉や乳製品を食べないと死んでしまうかのような調子で話していたからです。刷り込みとは恐ろしいものですね。

もしこれが事実ならこれらの食品を食べてない私はとっくに死んでいるし、昔の日本人はみな栄養失調状態でかろうじて生きてきたということになってしまいます。

番組内では、世界中でいかに毎日の食事の量が減ったかということをやっていましたが、これは逆にいいチャンスなのではないかと私なんかは思いました。食糧がないことを嘆くのではなく、逆に何を食べるべきなのかを冷静に見直すいい機会ではないかと思うのです。

たとえばユダヤ人強制収容所での実体験を書いたV.E.フランクル著『夜と霧』などを見ると、収容所に入って逆に健康になったユダヤ人がいたことを不思議がっている記述があり、また『エコロジカル・ダイエット』によると第二次大戦中に肉が食べられなくなったことによって逆に国民の健康状態が良くなったという報告をしているヨーロッパの国もあるようで、むしろ欲にまかせて好き放題たべているほうが体によくないのは明らかなように思います。

前にもこのブログで書いたように、私は肉、乳製品、卵の類はふだん食べないので食品が高騰しているといってもまったく実感がないのです。私の頭の中では、海パン一丁の小島よしおが「そんなのかんけーねぇー」と踊っています(笑)。

菜食にすると本当に体がすっきりして軽くなります。逆に外食などで肉を食べると肉ってこんなに重かったのかと驚いてしまいます。そして焼き鳥屋や焼き肉店などの前から肉の焼くにおいがして来ると、うっ、と思わず息をつめてしまうようになりました。死肉の焼けるにおいがしてきたという感じです。ちょうどタバコのにおいをかいだときと同じ感覚ですね。

今回書いた内容に重なるシュタイナーの言葉を引用して今回はおしまいにします。

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子どもが砂糖をなめるのは、栄養のためではありません。子どもがなめる砂糖には栄養になるものがいくらかありますが、しかし、子どもは栄養のことを考えて砂糖をなめているのではなく、甘いからなめているのです。砂糖をなめるときには、甘さが意識されます。牛や豚の脂肪を食べるとき、子どもが砂糖をなめて喜ぶように、快楽を満足させているのです。もちろん、人間は生きていくうえで、そのような内的な快楽を必要とします。ですから、肉が好まれるのです。肉が好きだから、肉を食べるのです。

しかし、狂信的になってはいけません。肉を食べなければ生存していけない人々もいるのです。ほんとうに肉なしで生きていけるか、入念に吟味しなければなりません。しかし、肉なしでも生きていける人が、肉食をやめて菜食にすると、以前よりも壮健になったと感じます。難しいのは、多くの人が肉なしでは我慢できないということです。しかし、肉食をやめ、菜食にするなら、壮健になるのを感じます。脂肪を外から堆積させるのではなく、自分自身の脂肪を作ることになるので、壮健になるのを感じるのです。

この二十四年間、わたしは多忙な日々を送ってこなければなりませんでしたが、菜食にしていなければ、それらの日々に耐えることはできなかったでしょう。夜通し旅行し、つぎの日に講演をするというようなスケジュールをこなすことはできなかったでしょう。菜食にしていると自分の体内でおこなわなければならないことが、肉食だとなくなるわけです。しかし、わたしが菜食主義を宣伝しているとは思わないでください。菜食にするかどうかは個々人の問題であって、菜食だけで生きていけるかどうか、慎重に吟味しなければなりません。(p.73-74)

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参考:
ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月17日金曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その弐

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前回とほぼ似た内容になりますが、肉食と菜食の違いをシュタイナーは次のように述べています。

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アジアの住民の一部は厳格な菜食主義です。彼らは温和な人々で、ほとんど戦争をしません。中近東の人々は肉を食べます。彼らはよく戦争をします。肉食をしないアジアの民族は、植物素材を肉に変えるために自分の力をつかっているのです。そのために、彼らは温和なのです。肉食をする民族は温和ではありません。
人々は次第にこのような考えに到達します。ただ、肉を食べる人は、このような考えにいたることができません。

<中略>

菜食には大きな価値があります。菜食にすれば、かんたんに疲れることはなくなります。尿酸塩が分泌されないので、疲れなくなるのです。疲れなくなると同時に、頭に尿酸塩が留まっていないので、ものをよく考えることができるようになります。肉食をしている人が使用しない力を、菜食をする人は使うのです。ただ、そもそも思考しない人は、菜食にしたからといって、どうなるものでもありません。
(p.116-117)

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菜食にすると疲れなくなるという記述ですが、私はこれを読んだときあるエピソードを思い出しました。

それは明治期に、お雇い外国人としてきたある教授が、人力車の人夫を見て肉を食べないのにどうしてそんなに走れるのか疑問を抱き、ある実験をしたのです。

一方には牛肉を、もう一方にはいつも通りの握り飯を食べさせどちらが先にへばるか比べてみたのです。結果、牛肉を食べた方はすぐにへばって動けなくなってしまったものの、いつも通りの握り飯を食べていた方は、翌日まで走り続けたそうです。

これは普段食べなれない牛肉を食べたということもあって単純に比較はできませんが、肉を食べるとパワーが出るというのはある種の信仰だと思います。一流のアスリートでタンパク質を植物性のものからとるようにしている選手もいるぐらいなので、自分で食事を変えて確かめてみるのが一番かと思います。

ただ心がパワフルになること、体がパワフルになることは違うのでそこら辺をよく見極めないといといけないと思います。

シュタイナーの図式でいうと以下のようになります。

肉食=:勇敢、戦闘的になる、:疲れやすくなる
菜食:穏やか、明晰になる、:疲れにくくなる


また菜食にすると暑さに対する感覚も変わってきます。前にこのブログでも取り上げたように(バラモンの菜食主義 2)、菜食をしていると暑さをあまり感じなくなります。従って菜食の人は夏にその真価を発揮するように思います。

参考:

ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月16日木曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その壱

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はじめに、
前回の食糧難関連情報として、明日10月17日(金)午後7時30分~8時43分NHK総合で、

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081017.html

という番組をやるようなのでお知らせしておきます。一見の価値ありと思います。

さて前回のブログの中で再び肉食の環境に対する負荷、その効率の悪さを取り上げましたが、今回から何回かに分けて、ルドルフ・シュタイナーが食、特に菜食と肉食の違いについてどのように述べていたかを取り上げたいと思います。

参考文献:

ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

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つぎのようなことを考えてみてください。いろいろな道具を使って家をたてるとします。原始的な道具を使って家を建てるなら、自分の意図どおりに建てられます。三、四人の人がすでに準備した家を、その人たちといっしょに建てる場合はどうでしょうか。仕事は楽になるでしょうか。そうはなりません。すでにまえもって下ごしらえができているものを使うと仕事が楽になる、という考えがあります。しかし、原始的なものを使用することによって人間は活発で、独立した存在になるのです

<中略>

人間が神経組織をみずから構築するなら、その神経組織は精神的=霊的なものに対して敏感になります。個人という狭い限界から発する偏見を超えて、事物の壮大な関連を見上げることができるのは、菜食のおかげなのです。大きな観点から自由に人生と思考を整頓できるのは、菜食のおかげです。怒り、偏見に狂うのは肉食のせいです

しかし、わたしは菜食主義を扇動するものではありません。肉食は人間にとって必要なものでした。今日なお必要なものです。地上の人間は堅固であらねばならず、個人的になるべきだからです。人間が個人的な興味を抱くのは、肉食のおかげなのです。戦争をしたり、共感や反感を持ち、感覚的な情熱をもつ人間がいるのは、肉食にその原因があるのです。人間が狭い興味に夢中にならず、普遍的なものに興味を持つのは、菜食のおかげです。

菜食を好む民族は霊性への素質を有し、そうでない民族は勇敢で、果敢です。勇敢さ、果敢さというものも人生には必要です。勇敢さ、果敢さというのは、個人的な要素なしには持つことができません。そして、個人的な要素は、肉食なしには存在しません。

この問題を、きょうは、まったく一般的、人間的な観点からお話しします。人間は肉食によって個人的な興味に没頭できることが明らかになります。しかし肉食によって、存在を概観するための人間の感覚は濁ります。「自分はどのようにしたらいいのかわからない。彼がどのように、それをなしたのかわからない」というように思うとき、それがいかに食べものに原因しているかは、たいてい気づかれていません。

全体の関連を見通すことができないのは、食べものにその原因があるのです。全体の関連を見通せることの場合、その人がなにをたべているのか、そしてその人の祖先がなにを食べていたかにその原因があるのです。祖先が基礎づけたものを一つの人生でくつがえることは、往々にして困難です。
(p.16-19)
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シュタイナーが、食を建築にたとえているのは面白いと感じます。すでに出来上がったタンパク質を自らの材料とするより、原始的な材料から自らの体を構成する方が人は活発になると述べています。

私はこれを読むとき、狂牛病を思い出します。狂牛病の原因とされるプリオンについてはいまだよくわかっておりませんが、驚くべきことにタンパク質のような生物(?)だと言われています。

人間の消化といのは食べた物を分子レベルまで分解して自分の体にあったように再吸収しているのかと思いきや、実は利用できるものはある程度そのまま利用しちゃっているみたいです。そうでなかったら、プリオンの入った肉を食べる事でそれが人間の脳に至って脳みそをスカスカにしてしまうことなどないはずです。

シュタイナーが「原始的な道具を使って家を建てるなら、自分の意図どおりに建てられます」というこのたとえは真理をついているのかもしれません。


シュタイナーによる肉食と菜食の違いをまとめると以下のようになります。

肉食=怒り、偏見にとらわれる、興味の範囲が個人的なものになる、勇敢・果敢な性質を帯びる、物事を概観するための感覚が濁る

菜食=霊的なものに敏感になる、事物の壮大な関連を見渡すことが出来る、普遍的な興味をもつ、霊性への素質を有す

シュタイナーは肉食を否定しないまでも、全体としては菜食をすすめています。特に精神的な道を志すひとたちには菜食を勧めています。あとがきには以下のようにありました。

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シュタイナーは、一九〇四年に行の伝授を目的とした秘教学院の開始にあたって、

酒は脳に作用して、霊的な器官を破壊し、修行が不可能になるので、酒類は一切禁じる。肉食は禁じないが、肉食をしないと低次の性質との戦いが容易になるので、肉を食べないほうがよいということに注意するように

という規則を作っている。(p.162)

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2008年10月15日水曜日

ジュセリーノ氏の予言

先日テレビ東京でブラジルの予言者ジュセリーノ氏の特番をやっていました。

http://www.tv-tokyo.co.jp/jucelino2/

その中で今回は5つの予言をしていたのですが、第5の予言で2011年から水をめぐる戦争が勃発するということを述べていたのは注目に値すると思います。

というのも、前に挙げたダニオン・ブリンクリー氏(ダニオン・ブリンクリー氏とその予言)も水をめぐって戦争が勃発するだろうと述べているからです。

◎石油、金(きん)、ドラッグ、あるいは 宗教的狂信とテロリズム、に対する戦争は2010年まで続く。また2014年まで水めぐるを争いが中東、中南米、そして合衆国において勃発する。

このまま地球温暖化が進み、地域によっては豪雨、別の地域では乾燥が進行するなど降雨の両極化がすすめば、飲み水や農業用水などをめぐって実際に戦争も起こりかねないと思います。何せ人間に必要なものは空気に次いで水なのだから。

この第5の予言の解説のなかで、食品とそれに必要とされる水の説明がなされていたのですが、これは予言の内容とは別にしてとても為になるものでした。

肉はあらゆる食品の中でもっとも水を消費する食品だそうです。牛丼1杯で2000リットルの水が使われているそうです。前に私のブログでも説明しましたが(菜食主義を考える )、肉を食べるというのはとても環境に負荷のかかることなのです。

番組内では次のように説明していました。牛肉に大量の水が必要なのは、牛の飼育のためにその飼料となる穀物を育てる必要があるからで、その量は肉1kgに対して穀物11kgだそうです。

つまり一回に食する肉を100gとすると、そこにかかっている穀物は1.1kgになります。これは一食分の穀物を50gとすると22食分にあたります。倍の100gとしてもおよそ10食分の穀物にあたるのです。食肉がいかに効率の悪い食べ物かがよく分かります

また食料関連では、第4の予言で2011年までに世界的な食糧危機が訪れ、日本人も多く飢えで亡くなるといっていましたが、最近の精神世界のことを少しでも勉強している人たちの間では、今後の3年間ぐらいの食糧を備蓄しておくのは常識のようです。特に今年はお米が豊作なので先を見越して買い置きしておく必要があるのかもしれません。

温暖化になれば米はもっととれるのではないか?と思いがちですが、たとえば稲の受粉の時期に気温が高すぎると受粉せずに米が全くできないという状況が発生するそうです。また台風の大型化や異常な降雨による日射量不足など、温暖化しても米は大丈夫だろうと考るのは甘いようです。

参考:
テレビ東京:ジュセリーノ特番
http://www.tv-tokyo.co.jp/jucelino2/

伊勢白山道さん9月10-12のブログ(フトノリト玄米への道 その1~3)
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/m/200809/1

船井氏のブログ
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200806008

2008年10月14日火曜日

千里の道も一歩から 其の参



大きなことも足元の一歩から始まるというのは確かに真実ですが、それと同時に大事なのは、

いまここにすでにゴールがある

という考え方だと思います。


私が好きなゲーテの言葉に次のようなものがあります。

いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。

(エッケルマン『ゲーテとの対話』より)


特に精神的な教えを実践していく過程で大事なのはこの発想、すなわちすでに

いまここに完全なる悟りの境地がある

という視点だと思います。これは顕教的な考え方と密教的な考え方の違いということもできます。


つまり、いまは不完全だけど修行を積み重ねていくことによっていつか完全になるという顕教の考え方に対して、

すべては大いなるものの顕れであるのだから、努力してどこかに達するというのではなく、自分が完全なる境地の中にすでにあるという感覚(密教的観点)をもって毎日を送っていくということです。

たとえるなら、宇宙に行きたいと思って様々な段階を踏んで地球から飛び立とうというのが顕教的な発想であるとするなら、

密教では地球自体すでに宇宙の一部であるという考えに基づいているといえるかもしれません。


したがって自分はすでにゴールである宇宙にいるという感覚を持ちつつも、この現実界で一歩一歩あゆんでいくという両方の感覚をもって生きていくことが肝要なのかもしれません。


時に思うのですが、私たちはある意味近視なのだと思います。

目の前にあることに焦点を合わせることに慣れ過ぎてしまって、遠くのものに焦点を合わせられなくなっているという状態です。

あるいは一種の健忘症といえるかもしれません。

仏陀やキリストなどの聖人といわれる人たちは、特別なことを悟った、感得したというより、我々のあるがままの本質を思い出した人といえるような気がします。


数日前から庭の金木犀が満開となりました。



金木犀のこの独特の甘い香りを嗅ぐと天国にいるかのようなやさしい気持ちになります。


私は外でふと花を見かけたりすると、その完全さとともに聖書にあるキリストのことばを思い出します。

老子も仏陀もキリストもおそらく同じような境地に至っていたのだろうという気がするのです。


野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

〔ルカ12-27〕





2008年10月10日金曜日

千里の道も一歩から 其の弐



前回に引き続き、今回は『老子』の口語訳をのせます。

-------老子道徳経第63章--------

何もしないことをわがふるまいとし、かくべつのこともないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。

小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとし慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。

むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する

世界の難問題も必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。

それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。


そもそも、安うけあいでは必ず信義にとぼしくなり、いいかげんな容易なことばかりしていると、必ず難儀なことが多くなる。

それゆえ、聖人でさえもなおむつかしいとすることがあって、だからこそついにむつかしいことは何もなくなるのだ。

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以下はこの章に関する解説です。


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無為の実践のありかたを具体的に示した親切な章である。

無為を為す」とか「無為を事とする」などというのは、矛盾したことばであって、当然にもそのむつかしさが予想される。

しかし、『老子』の考える理想的な実践のありかたは、そうした矛盾と思える逆説的な言いかたでなければ、表しようがないのだ。


「無為」や「無事」は、したがって文字どおりに何もしないこと、あるいは何事もないことではない。

何もしないようにみえて、実は何もかもをなしとげており、

何事もないようにみえて、実はすべての事が備わっている


そうしたありかたをわがふるまいとし、わが仕事としていくのである。


では、はっきりしたわざとらしい形をとらない、何かをしたという跡を残さない、そうしたやりかたで万事を処理していくのが無為の実践であるが、それはどのようにして果たされるのであろうか。

聖人は終(つい)に大を為さず」が、その解答である。


事態が困難になり、問題が重大になれば、どうしても大きな目だったことをしなければならない。

そうなる前の小さい易しいうちに、さきの大事を見こして人の知らない手をうっていくのである。

それにはまた、ものごとに慎重でなければならない。軽率な承諾やイージーな進みかたは慎むべきである。

聖人すらなおこれを難(かた)しとする」、むつかしいと考えて慎重な態度でのぞむのである。

-------引用終了---------


無為というのは、大きな流れにまかせるということであり、それが結局一番楽なありかただということだと思います。

それでは何もしないのかというとそうではなく、初めに方向をピシッと決めて、あとは自然に任せるということだと思います。


ちょうど種をまくのは人間の行為であるのに対して、植物がそだっていのは自然にまかせるのに似ているかと思います。

でもふつう人は、種をまいたあとももっと早く成長させよう、もっと見栄え良く育てようなどと思い、いろいろ手をかけ、不自然な努力してしまうのだろうと思います。


この老子の無為の考え方は、前に挙げた
神道のこころ の著者が述べている「生かされている」という想いとも通ずると思います。

「自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。」

結局この世界は大きな力が働いていて、その力にそって生きていけばうまくいきようになっているのだと思います。

最終的にはこの大きな力とひとつになること、そもそものはじめから大きな力のひとつであることを思い出すことが、人間がこの世で生きていることの目的なのかもしれません。



参考:

金谷治『老子』講談社学術文庫 1997


原文のスキャンしたものを見れます↓
http://cid-751b07d8b4bfc39b.skydrive.live.com/browse.aspx/%e5%85%ac%e9%96%8b/%e6%9c%ac%e3%80%94book%e3%80%95/%e8%80%81%e5%ad%90





2008年10月8日水曜日

千里の道も一歩から



私はよく、何かやらなければならない大きなことがあるとき、いつもこの


千里の道も一歩から


を思い浮かべます。そして「ひとつ、ひとつ、、」と心の中で自分に言い聞かせ、いま目の前にあることに集中しようと心掛けいます。

人はつい現在から心が離れ、過去や未来ことに心がさまよいがちですが、目の前のひとつ、ひとつのことに集中するというのは大切な心の習慣だと思います。

最近知ったのですが、この「千里の道も一歩から」は老子のことば

千里の行も足下より始まる。千(里之行、始於足下)
≪老子道徳経第64章≫

に由来するものだそうです。

もともとの意味を見てみると、

大きな問題もその兆しは小さなことから始まっているので、賢い人はそれに注意し処置をする」

という意味で使われており、よく使われるような、

「膨大なこともひとつひとつ積み重ねによって達成される」

という意味ではありませんでした。


本文の前後を読んでみると実に、現代においても示唆に富む内容だったので、第64章の全口語訳を載せておきます。

---------老子道徳経第64章-------------

安定しているうちはそれを維持しやすい。兆しのあらわれないうちはそれを処置しやすい。もろいうちはそれを溶かしやすい。かすかなうちはそれを消しやすい。

だから、まだなんでもないあいだに問題を処置し、まだ混乱にならないうちに事態を秩序づけておくことだ

ひとかかえもある大木も毛さきほどの小さい芽から生まれ、九層の高台もひと盛りの土の積みあげから起こり、

千里の遠い旅も足元の一歩から始まる

そうした微妙な始まりに注目しないで、何かことさらなことをするものはそれをぶちこわすことになり、何かをむにりつかまえておこうとするものはそれを失うことになる

それゆえ聖人は、ことさらなことは一切しないからぶちこわすこともなく、何かをつかまえておこうともしないから失うこともないのだ。

人民が仕事をするときは、いつもほとんど完成しそうになったところで、だめにしてしまう。

初めのときと同じように、終わりぎわまで慎重にしたなら、仕事をだめにすることはないのだが、人民は欲望と知識にひかれて慎重を欠くのだ

それゆえ聖人は、人びとが欲望を起こさないようにと願って、手に入りにくい珍品を貴重としたりはせず、人びとが勉学をしないようにと教えて、知識を求める大衆のゆきすぎをもとにひきもどす。

こうして万物のあるがままのありかたを助けて、自分からことさらなことは決してしないのだ

-------了---------

この章の解説には次のように書かれていました。

--------------

ものこどは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきである

それでこそ

無為の実践

が可能なのである。

荒療治を必要とするよう大事になったり、成功しそうなところで失敗したりするのは、みな欲にひかれ知にとりつかれるためであって、

だから、聖人は不欲不学をひろめて、万物の自然なありかたにまかせていくのだという。

--------------


聖人は問題を小さい兆しの内にを処理するが、凡人は欲にひかれて問題を大きくしてしまうというのは、現在の金融不安などを見ても当てはまるという気がします。

また国でいえば政策はそれにあたり、それゆえ政治家を選ぶ選挙が如何に大事かということであり、また個のレベルでいえば健康などもその部類に入るかと思います。


先日、うちの庭木の剪定をしたのですが、

ひとかかえもある大木も毛さきほどの小さい芽から生まれ

の如く、大きくなってから太い幹を切ることの大変さを身をもって味わいました。

また「何かをつかまえておこうともしないから失うこともない」というのも真理だと思います。

自分の体も自分の持ち物もすべて神様から一時的にお借りしているものだという認識をもっていれば、必要以上に執着することもなく、ものごとが増減してもそれほど一喜一憂する必要もないのかと思います。

すべては借りものであり、仮のものなのかもしれません。


仏陀の教説の核心は、諸行無常(諸々の現象は変化する)、諸法無我(諸々のものに実体しての“我”というものは存在しない、すべては縁によって仮に成り立っている)、涅槃寂静(煩悩の消え去ったところに寂静の境地がある)の三つですが、すべては借り(仮り)ものという考えは仏陀の教えに底通すると思います。

この第64章は前章に続く「無為の実践」を説くもので、こちらもまたたいへん示唆に富む内容となっているので次回取り上げてみたいと思います。



参考:

金谷治『老子』講談社学術文庫 1997


該当するページをスキャンしました↓
http://cid-751b07d8b4bfc39b.skydrive.live.com/browse.aspx/%e5%85%ac%e9%96%8b/%e6%9c%ac%e3%80%94book%e3%80%95/%e8%80%81%e5%ad%90

2008年10月7日火曜日

腰痛

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先日NHKスペシャルで

「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」
という内容をやっていました。

タイトルにあるように、「腰痛は二足歩行を始めた人間にとっての宿命」という言われ方がされますが実はそうではないというのが今回の結論でした。
その証拠として挙げられていたのが、一日に狩りで20キロ以上も歩くアフリカの原住民でした。彼らに腰痛を経験したことがあるかと聞いたところ、あると答えた人が8割ぐらい!?しかしそれらは、蜂蜜をとるのに木に登っていて落ちたとか、どこかにぶつけたとかで、ぎっくり腰のように急に痛みがくるなんてことはないとのことでした。逆に彼らの方から「急に腰が痛くなるなんてどこか病気なんじゃないの」と言われていたことが可笑しかったです。

ぎっくり腰は、背骨と背骨の間の軟骨がずれ神経を圧迫することによって発生する痛みですが、アスリートの背骨の断面写真を見ると、ふつうの人よりしっかりした軟骨でした。つまり適度な運動によって新陳代謝が活性化され軟骨は強く維持されるのです。番組内でも、ウォーキングが推奨されていました。

しかし驚いたのは、腰にかかる加重です。体重73キロのひとが普通にまっすぐ立っているときに軟骨にかかる重量は66キロでしたが、前屈しただけでなんと235キロもの加重がかかるのです。これは静止しているときの数値であって、この姿勢でさらに動くとしたらさらにこの何倍かの力がかかることになるのです。いかに物を持ち上げたり、作業をしたりするときの姿勢が大事かということです。

かくいう私もかつて京都で旅館のアルバイトをしていた時は、10段も積んだ御膳を運んだり、布団の上げ下ろしなどの作業をしているなかで、腰痛とまではいかなくても、腰に違和感を覚えるようになりました。

ちょうどその時やはりNHKのある番組で、引っ越し作業員の腰痛をなくすには、腰に負担がかからないように腰を入れてものを持ち上げることに注意するとともに、腹筋と背筋を鍛えることだということをやっていました。これを見た私は、極力中腰での作業はしない物を持ち上げ、降ろす時に腰を入れて行う腹筋背筋の筋トレを実践したところ、腰の違和感から解放されました。ということで腰が痛いという人にはよくこれらの点をアドバイスします。ちゃんとやっている人は、腰痛がなくなっているようです。

前に挙げた健康オタクの水道橋博士の本にも腰痛克服のコラムが載っていて、まさに私の考えと同じものでした。

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俺の持病で、最も長く深刻なのは、椎間板ヘルニアだ。今でこそ、たけし軍団の中でも体を張った仕事をしていない〝ホワイトカラー〟として、腰ぬけ、腰砕け野郎、と非難されることも多い俺だが・・・。<中略>

その後、腰は悪化の一途を辿り、13年前、正式に椎間板ヘルニアと診断され、ドクターストップ。<中略>

以後も年に何回かは、歩行不可能になる事態が続き、椅子に座ったまま、漫才の舞台をつとめた時などは、水道橋博士ならぬホーキング博士講演会の様相であった。<中略>

そこで鍼やお灸、カイロなど様々な民間療法巡りの末、俺が最終的に辿りついたのは、最も単純かつ原始的な腹筋と背筋の強化だったのだ。

イメージとしては、脊椎を割り箸であると考えたら、俺の脊椎は、一度、横に折れた割り箸であり、その折れた先のささくれだった所が、横にはみ出て神経を刺激している状態なのだ。そこで折れた個所を筋肉というゴムテープでぐるぐる巻きにして、二度と折れないよう強化し、ささくれも横にはみ出さないよう、筋肉の圧力で元の状態に収めている。しかし、このゴム=筋肉がゆるんでくると、再び、ささくれ部分が、横にはみ出て神経を圧迫し痛みが出てくる。

この状態をイメージし、腹筋、背筋だけは怠らず、文字通りの粘り腰で続け、もう既に5年以上、深刻な腰痛は回避しているのだから、この方法は功を奏しているようだ。
多くの人が同病相哀れむ国民病の腰痛だが、長く腰を据えた対処をすることが、まさに肝心〝要〟なのだろう。
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このように水道橋博士もホーキング博士状態になることなく筋力アップによる腰痛克服を告白しています。私も毎日欠かさず腹筋と背筋はしていますが、バランス的には腹筋より背筋の方を多めにやる方が体にはいいそうです。

これを知ったのは、バレーダンサーの草刈民代さんの本、『全身「からだ革命」』 講談社 2006 を読んだことによってでした。

この本は自分のガタガタになった体が、ヒーラーの木津龍馬氏のヒーリングや食事の指導、その他の運動療法などによってどのように回復していったかを綴った本ですが、その中で著者が実践したピラティスとともにPNFという運動が紹介されていました。

PNFというのは1940年代にアメリカで誕生したリハビリのための運動だそうですが、PNFの理論によると腹筋と背筋の筋力比は「1:1.2~1.5」らしいです。考えてみると、体の屈曲は前には180度ぐらい曲がりますが後ろにはよくて90度でしょう。つまり人間の体は前により倒れやすくなっている分、それを支える背筋が強くなくてはならないのです。これを知って以降、私は背筋の回数を腹筋より1.5倍くらい多めにしています。(単に回数を増やせば筋力が増すのかは分かりませんが、、、)

だいぶNHKスペシャルの話からそれましたが、放送によると実は腰痛の85%の原因は分かっていないそうでこれには驚きました。だから鍼や灸がもてはやされるのでしょう。特に最近注目されているのが心因性の腰痛で、心的ストレスが腰痛を引き起こす原因になっているそうです。番組内で取り上げられていたのが原因不明の腰痛に悩まされていた作家で、一年間執筆をやめることで腰痛がなくなったそうです。また単純作業でもそこに心理的なストレスが加わると、腰にかかる負担が大きくなるという実験をしていました。

心因性の腰痛というのはもしかしたら“”の流れ、あるいは停滞が関係しているのかもしれません。だから鍼灸が腰痛に効くとも考えられます。これなども前にブログで書いた、ここぞというときに力まないで息を吐くことを実践していれば、気のエネルギーを体の内、特に腰にため込むことなく済むのかなという気がします。

人間の体は複雑だなと思うとともに、とてもよくできていると思います。なにせ何億年もかけて改良を重ねてきたのだから、ほぼ完成形と考えてよいのではないでしょうか。それゆえ、結構日常の簡単な心掛け次第で健康を維持できるものでもあると私は思うのです。

参考:
NHKスペシャル「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」http://www.nhk.or.jp/special/onair/081005.html

水道橋博士『博士の異常な健康』アスペクト 2006

草刈民代『全身「からだ革命」』講談社 2006

2008年10月5日日曜日

ギンモクセイ

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庭にあるギンモクセイの花が10月になって咲き始めました。

窓を開けておくと、風に乗ってほのかな甘い香りが部屋にやってきます。この香りを嗅ぐとああ、実りの秋がやってきたんだなぁとなんとなくやさしい気持ちになります。


庭にはキンモクセイもあるのですが、ギンモクセイの方が毎年一足先に咲きます。そしてギンモクセイが終わる頃にキンモクセイが咲きだすので、二種類植わっていると花の香りを二倍長く楽しめます。
キンモクセイはいまだにつぼみの状態でした。またキンモクセイも満開になったらアップしようと思ってます。





2008年10月4日土曜日

パンと米

今月10月からまた小麦の値段があがるというニュースを耳にしました。しかしパンは米に比べてもともと割高な食品です。しかもパンは、パンだけを食べるというのでは味気ないので、甘いもの(ジャムや蜂蜜)や油っこいもの(バターやマーガリン)、またその甘いものにつられて今度は苦いもの水気の物(コーヒーや紅茶)が欲しくなります。ということでパンを食べるというのはどちらかというと不経済であり、かつ色々な嗜好品を引き寄せる引き金となっているように思います。

これは逆の側からもまた言えて、たとえばコーヒーを飲むと、それだけでは物足りないから、甘いもの、また乾いたものが欲しくなり、結局ケーキやクッキーなどを食べる事になります。

これに対しお米はどうかというと、水分も程よく含まれ、また味もニュートラルなので、それだけで食べても十分であり、もし加えるとしたら塩気のものが欲しいかなという感じです。そういう意味でお米というのはバランスのとれた素晴らしい食材だと思います。

かつて読んだマクロビオティックの本の中に、西洋人は主食である小麦をすりつぶして粉にし、それを加工してから食べるのに対し、日本などのお米の文化圏では米という穀物をまるのまま食べるため、それが考えの違いにもあらわれるということが述べられていました。

つまり、西洋で科学という“分化”の学問が発達したのはそのような食のあり方が一因となっており、一方、米をまるのまま食べる東洋の国ではそのような物事を全体から分けて考える発想はあまり発達せず、むしろ全体とのつながり自然との調和を大事にしてきたと述べられていました。

なるほど、これは一理あるかもしれないと思いました。前に書いたバラモンの菜食主義 ではありませんが、やはり何世代、数千年にもわたってある同じ食習慣を続けていたら、小麦の文化圏と米の文化圏では自ずと考えの違いというのが出てくるだろうと思います。単に食べるということだけでなく、食べる前の作業というのも含めて、世代を通して刷り込まれる影響というのは相当なものだろうという気がします。


季節はすっかり秋になり、店にはが並ぶようになりました。私が最近ハマっているのは、玄米に小豆と栗をいれて圧力鍋で炊いた、“アズキクリごはん”です。稲作が日本に伝わってきたのは弥生時代のころだと言われていますが、それ以前の縄文時代において日本人は木の実を主食として食べていたそうです。また小豆は古事記にも出てくる日本に古くからある穀物ですが、これの原産地はなんと「インド」だそうです。ということは、縄文と弥生以降の日本人が食べてきたもの、それに私の好きなインドからの穀物が合わさったものが“アズキクリご飯”だったのです。

目の前の茶碗を眺めながら、時にこんな悠久の昔に思いを馳せる今日この頃なのでした。