2008年12月24日水曜日

驢馬のいる所


本日、アフガニスタンで地道に医療、農業の普及活動をしているペシャワール会から会報が届きました。

現地で日本人スタッフの伊藤さんが亡くなられて以降、日本人はすべて撤退し仕事は現地の人たちに引き継がれているそうです。


その伊藤さんを追悼する写真展が仙台、名古屋で開かれるそうです。機会があったらぜひ行ってみたいと思ってます。(入場無料)


また会報によると、2009年版のカレンダー『驢馬のいる所』が発売されるそうです。(貼り付けた絵がそれです)

ネット上の毎日新聞にも記事が出ていました。 http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/20081224ddlk40040274000c.html

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ペシャワール会:カレンダー発売 アフガンに支援の手を /福岡

 アフガニスタンや隣国パキスタンで医療支援や水源確保事業に取り組むNGO「ペシャワール会」(中村哲現地代表)=中央区=が09年版カレンダー「驢馬(ろば)のいる所」(A2判)を制作、発売した。積み荷や人を運ぶ足として現地で欠かせないロバを題材にした7枚の挿絵が山岳地帯の厳しい寒さや街のにぎわいを伝えている。売り上げは会の活動資金に充てる。

 挿絵は、40年近くアフガンや近隣国をたびたび訪れ、民衆の暮らしぶりを描いてきた福津市の画家、甲斐大策さん(71)の油彩画。甲斐さんは約20年前から、ペシャワール会が毎月発行する会報の表紙にも絵とエッセーを寄せている。

 1部1500円(送料込み)。注文・問い合わせは会分室の石風社(092・714・4838)。【阿部周一】〔筑後版〕

毎日新聞 2008年12月24日 地方版


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参考:

驢馬のいる所:

http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/book/calender2009.htm


ペシャワール会HP:
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/index.html





2008年12月14日日曜日

アルツハイマー


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九州、阿蘇での法事を終え、阿蘇の幣立神宮、高千穂神社、高千穂峡、天岩戸神社などをめぐって帰ってきました。様々な人と出会い、学ぶこと、感じる事の多い旅行となりました。旅のことに関してはまた機会をみて書きたいと思います。


本日のテーマはアルツハイマーです。
11月30日にNHK「サイエンスゼロ」でアルツハイマーに関する最新の研究報告をやっていました。

それによると2005年時点での患者数は117万人で、今後20年で患者数は倍増、なんと240万人にもなるそうです。

アルツハイマーは脳内に疲労物質のようなタンパク質(アミロイドβ)が留まることで発症するらしいのですが、ふつうはネプリライシンという酵素によってそれを分解することで脳の機能を保っているそうです。

しかしこの酵素も60歳を過ぎたあたりからその分泌量が急降下してしまうそうで、現在ではいろいろな薬が開発されアルツハイマーの予防・治療に役立てようとしているそうですが、有効なものはまだまだ先のようです。

しかしもっととも簡単でいますぐにでもできるネプリライシン分泌増加の方法は、定期的な運動だそうです。

ヨーロッパでの研究報告によると、1449人の人たちを20年にわたって調査したところ、日常的に運動をしているひとは、アルツハイマーの発症率が1/3だったそうです。

日常的な運動というのは、週二回、一回に20分以上、息がはずむ程度の運動ということでした。

これはひとつの目安でしょうが、運動を習慣化するというのは人間が健康を維持していく上で基本のように思います。あらゆる病、あらゆる健康法に関して、常に「運動」という項目がでてきます。

もしこれにさらに付け加えるなら、心の習慣食の習慣ということになるのでしょうか。人間は心と体で成り立っているので、両方の領域におけるエネルギーの出入りに注意しておくというのは至極当然であるように思います。

番組内でへぇーと思ったのが、徳川家康に関してのエピソードでした。

彼は自ら漢方薬をつくり、家臣などにも与えていたそうですが、その中で「八味地黄丸(ハチミジオウガン)」という漢方薬は、アルツハイマーの改善に効果があることが東北大学の研究によってわかったそうです。

これを飲むことで脳内の血流がよくなるらしいです。家康が晩年まで頭脳明晰だったのはこの漢方薬のおかげだったのではないか、と言っていました。

また他にアルツハイマーに処方する漢方薬としては「抑肝散(ヨクカンサン)」というのがよく使われるそうです。これを服用すると、アルツハイマーの患者さんがみる幻覚や興奮を抑えるそうです。


最後に、ブログの冒頭に載せた写真について説明しておきます。

これはかつてNHK「知るを楽しむ」でやっていた川島隆太氏の「脳を鍛える」のテキストから引用掲載したものです。

川島隆太氏はDSの「脳トレ」でお馴染みの教授ですが、前頭葉を鍛えるには、難しいことをやるよりも、昔から読み書き計算などといわれるような単純な作業を日常の中に習慣化したほうが良いそうです。

音読や簡単な計算、漢字の書き取り、家族との会話、料理などをすると脳の血流が良くなって真赤になるそうです。あまり安易な方向に自分をもっていくのではなく、若いうちからこういったことを意識的に習慣化したいものです。



参考:
サイエンスゼロ:アルツハイマー病 研究最前線
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp235.html

川島隆太『知るを楽しむ 脳を鍛える』NHK出版




2008年11月30日日曜日

人間は多産!?

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多産な動物というと身近なところでは犬や猫を思い起こしますが、人間も多産だといわれると意外な気がしないでしょうか。

先日放送していたNHKの


「サイエンスゼロ:人の謎に迫る②」

という番組によると、実は他の類人猿に比べ、人間は極めて多産なんだそうです。

ここで比較する類人猿とは、人間と700万年前に別れたチンパンジー、900万年前に別れたゴリラ、1400万年前に別れたオラウータンです。

人間が出産後40日でまた受精が可能になるのに対して、ゴリラでは4年、チンパンジーでは5年、オラウータンに至ってはなんと8年も子供ができないそうです。


これは類人猿の授乳期間が長いためだそうで、メスは子どもに授乳するによって体内に発情を抑えるホルモンが分泌されその間子供ができないのだそうです。

こう比較してみると、人間が他の類人猿に比していかに繁殖力旺盛な動物へと変化したかがよく分かります。これは人間がそれまで食料が豊かで、外敵に襲われる危険の少なかったジャングルを出たことによるのだそうです。


危険が多く食料の少ない草原地帯に入って行ったときに、人間は多産という生存戦略を選択したのです。

万物の霊長といわれる人間が、たくさん産むことで生き残りを図ろうとする戦略をとっているというのは、こと生殖に関して言うなら退化のように思え、かなり意外に感じました。

また番組では、多産であること、二足歩行をしなければならなくなったこと、体より脳を発達させる方向で進化をはかることなどによって、子どもは未熟児として生まれざるを得なくなり、その結果人間は共同で作業するようになった、つまり社会性がでてくるようになったと説明していました。

◎危険が多く、食糧が少ない→ 多産という戦略
◎草原を歩かなければならない→二足歩行→産道が狭まる
◎新しい環境での生活→脳を肥大化させる方向で生存をはかる

⇒未熟児として子供を出産→子供は共同で育てなければならない(教育・ことば・社会性)

こうして多産な体となり、二足歩行をして新しい環境に広がっていく戦略をとった人間は、アフリカを出て、ヨーロッパ、中東、アジア、アメリカ大陸へと地球上の隅々まで広がっていくことができたそうです。

しかし一方、人間が地上に行きわたりフロンティアを失った時、土地に対する所有意識と、境界という概念が生じ、戦争をするようになったのではないかと説明していました。つまり陸地に人間が飽和状態になった時に、多産という戦略をとった人間に戦争が生じるのは必然ではなかったのかということです。

また生活基盤が整い、医療が生き届くようになったここ数百年において、人間が人口爆発と呼ばれる現象を引き起こしたのも人間が本来多産だからといわれれば納得できます。

数万年をかけて死ぬ思いで全大陸に広がった人類が、現在高度な文明を築いて安住しているということは、おそらく私たちの体と心(脳)はまたそうとう急速な変化(部分的には退化?)の時期を迎えているのではないかという気がします。


その変化が将来の世代にとって良いものであるように私たち一人一人が自覚をもって生活する必要があるのではないか、と番組を見終えて少し真剣に考えてしまいました。

また番組内で、研究者が人間とは一言で言うと何かという問いに対して、

「人間とは他者のなかに自分を見たがる動物である」

という定義をしていましたが、これはなかなか面白いと感じました。人間の定義として、道具を使う、言葉を話すなどは一般に言われることですが、このような哲学的な定義を類人猿の研究者が述べていたのは興味深かったです。

しかしそもそも、『人間とは何か』という問いを発していること自体が人間の特質なのかもしれない、と私は感じました。


参考:
サイエンスゼロ:人の謎に迫る②
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp234.html




2008年11月24日月曜日

ゴールデン・ボーイ




私の最も好きな映画として外すことができないのは、なんといっても、

『スタンド・バイ・ミー』(原題:The Body)

です。何度見ても心を打たれてしまいます。特に最後のナレーションでそれぞれがどういう風になっていったかが語られるあたりではつい目頭が熱くなってしまいます。

それはさておきこの映画、実はスティーヴン・キングが書いた恐怖の四季(Different Seasons)という作品の中のにあたる物語で、実は“冬”にあたる物語以外はすべて映画化されているのです。

は、、、というと、
あのモーガン・フリーマンも出ている、

ショーシャンクの空に(原題:Rita Hayworth and Shawshank Redemption 1994年)



なのです。
そしてもう一作映画化されたのがにあたる

ゴールデン・ボーイ(原題:Apt Pupil 1997年)



なのです。
『スタンド・バイ・ミー』や『ショーシャンクの空に』ほど有名でなく、ほとんど聞いたこともない作品ですが、なんといってもあの『スタンド・バイ・ミー』の兄弟作品であるし、

スティーヴン・キングの物語はストーリーが深く、人間描写が巧みでつい引き込まれてしまう作品が多いので、この『ゴールデン・ボーイ』もいつかレンタルで借りて観たいなぁと思っていました。そして本日、念願かなって(?)やっと見ることができました。


最近の映画のようなドンパチや車がクラッシュするシーンなど全くありませんが、期待にたがわずどんどん引き込まれるストーリーになっており、どんでん返しもあって、久しぶりに映画を見たなぁという感慨に耽ることができる作品でした。
(これから見る人のためにストーリーは書きません)

キャストも「ロード・オブ・ザ・リング」でガンダルフ、「Xメン」でマグニート役をやっているおじいさん(アン・マッケラン)も出ていてとても味のある演技をしていました。

最近のアメリカ映画は特殊効果頼みが多く、観ているその時は「オー、スゲー!」と思うものの、なんかいまいち心に残らないものが多いように思います。

もっと心の琴線にふれるような映画がでてきてほしいなぁと、今回『ゴールデン・ボーイ』を見ていてつくづく思いました。

久しぶりにまた『ショーシャンク』 でも観ようかな、、、。







2008年11月21日金曜日

糖尿病 ≪後編≫


これもやはりカルカッタでとったものです。店の前にココナッツの実が置いてあり、「これ下さい」というと目の前でナタをふるって穴をあけ、ストローをさして出してくれるのです。暑いところでこれを飲むとほんと体が生き返ります。

さて、前回の続き糖尿病についてです。

番組では、日本人の場合、糖尿病になった人で肥満でなかったひとの割合が75%にも達していたといっていました。つまり外見的に肥満でなくとも糖尿病には注意しなければならないのです。

これは日本人が昔から脂質をあまりとってこなかったことと関係しているそうです。欧米人は昔から肉を食べてきたので、インシュリンを大量に分泌するように体ができてきたそうです。インシュリンが分泌されることで、体細胞が血中の糖を吸収し、体細胞が大きくなる(=太る)ことによって体を防御してきたそうです。

しかし日本人は数千年にわたって質素な食事をしてきたので欧米人ほどインシュリンが分泌されないそうです。したがって糖が血中にでてもそれほど体細胞に吸収、蓄積されることなく、血液中にそのまま残ってしまうのだそうです。

欧米人でとんでもなく太っている人がいますが、あのような体形はインシュリンが大量に分泌されている証拠なのです。しかし日本人はあのような体型として現れる前に糖尿病になってしまうのだそうです。

もうひとつ注意しなければならないのは、飢餓状態による糖尿病だそうです。
飢餓状態でどうして糖尿病になるの・・・・・?
と思われるかと思いますが、飢餓状態の母親が妊娠している場合、胎児の体は外の環境が栄養不足であると認識し省エネモードになって生まれてくるそうです。
だから生まれてくる時も体重が3000グラムに満たない状態低体重児)だそうです。しかし大人になって食生活が豊かな環境になると、省エネモードで生まれついた分すぐに栄養過多となって糖尿病になってしまうそうです。

第二次大戦後のヨーロッパ現在のインド(貧しい農村から豊かな都会への就職)などがその事例だそうですが、実はこの日本でもこの飢餓状態の糖尿病が懸念されているそうです。
それは女性のダイエットだそうです。女性がダイエットをすることで体は飢餓状態と同じ状況になり、生まれてくる胎児は低体重児になるそうで、いまその割合が多くなってきているそうです。

食べ過ぎてもだめ、食べな過ぎてもだめ、世の中バランス感覚が大事だということになるのでしょうね。

2008年11月20日木曜日

糖尿病 ≪前編≫

今回はまた食がらみのことを書くので、写真もそれに合わせてみました。この写真は、カルカッタの道端でやっているサンドイッチ屋さんでとったものです。

ここのサンドイッチ、めちゃくちゃおいしかった。使っているものはすべて野菜なのですが、その種類がハンパじゃない。ふかしたジャガイモ、ニンジン、タマネギ、ピーマン、トマト、キュウリ、その他よく分からない緑のものと、手際よく次々とのせていってパンで挟むのですが、その野菜の量もこれで挟めるの?というぐらいのっけてしまうのです。

だからこれ一個だけでもけっこうお腹がふくれてしまいます。日本に帰って同じような具で試してみましたが、あそこで味わったほどうまくはできませんでした。ほんと不思議なサンドイッチ屋さんです。

いつも人だかりができてます。確か10年前ここに来た時も同じ場所で野菜サンドを作っていて、食べて感動したのを覚えています。カルカッタのサダルストリートに行ったら是非味わってみて下さい。


さて今回の話題は語源から入りたいと思います。昨日のラジオ英会話で次のようなセンテンスがありました。

Quicksand is loose sand saturated with water.
(流砂は水で飽和状態になったさらさらの砂です)

saturateって聞いたことないなと思って意味を調べてみると、「水浸しにする、~で満たす」と出ていました。さらに語源を調べてみると、ラテン語

saturatus [saturare満たす+tus過去分詞=満たされた]

に由来しており、同じ語源からでているものとして、sad(悲しい)satisfy(満足させる) などが挙げられていました。ここでsadがなんで満足なのか、、?と疑問に思うのですが、辞書によるとsadの原義は「満足」であり、そこから、

うんざりした → 悲しい

と変化したらしいのです。
これはとても面白いと思いました。私は先日やっていたNHKスペシャル『病の起源:糖尿病』を思い浮かべました。まさに

食べ過ぎ(満足)→肥満、糖尿病(うんざりした)→失明、手足の切断(悲しい)

の方程式が成り立っているのです。度を過ぎた満足が悲しみに変わるというのは、何に関しても同じなのかもしれません。何事もほどほどというバランス感覚が大事なのでしょうね。

しかし本当に「食」って大事だと思います。医食同源という言葉があるように、薬を飲むのと同じぐらい真剣にとらえる必要があると思います。


番組では、世界中で糖尿病の人は2億人、日本人ではその予備軍も含めると1840万人、だいたい6-7人に一人の割合だそうです。

私は糖尿病というと、かつて京都の旅館でアルバイトをしていた時を思い出します。忘年会シーズンになると、年配の方々が旅館を宴会場として利用されるのですが、その人たちが使った後のトイレは異様に甘いにおいがたちこめているのです。ああ、みなさん糖尿病なんだなぁ、と思っていました。

その年代の方々が宴会を催されると、トイレはほぼ毎回同じ甘いにおいがしていました。そうすると全国でみると相当の数の人が糖尿病、あるいはその予備軍なんだなと感じました。日本人の6-7人に一人といってもこれは赤ちゃんや子供も含めての話だから、たとえば50代、60代などとして統計をとったらものすごい数になるだろうなと思います。


to be continued→

2008年11月16日日曜日

エルゴノミクス恐るべし!


上の写真はマイチャーリーです。5-6年前に買いました。メーカーはGT。前後サスがついていてとても快適、私のお気に入りです。

しかしこの自転車、最近ジェルを使ったサドルの部分が痛んできたのと、


ハンドルグリップの変速機が壊れているので、今回思い切って両方とも部品交換してパワーアップすることにしました。



ビックカメラで買ってきたのは、上の二点。サドルは「Serfas RX-921V」(4200円)、変速機はシマノ製の7段用グリップシフト(840円)です。

特に今回こだわったのが、サドルです。最近の研究で、自転車に長時間乗っていると会陰部の血流が滞り、特に男性にはよくないといわれており、この真中が空いたものをつけようと思っていました。

ビックカメラでサーファスの中空きのサドルが展示されているのを見て、本当にこれ効果あるのかな?と疑問に思っていたのですが、


ミスタービーンのように売り場で実際にまたがって試してみる訳にもいかないので、ネットで色々情報を調べてみました。

各社このようなデザインのサドルを出している中、ちゃんとアカデミックな研究に基づき、医学博士と共同で設計していたのが、このサーファスのサドルでした。(他にもスペシャライズド[Specialized]も医学的な視点からデザインしたものを扱っているようです)




晴れ渡った土曜の朝、さっそく買ってきたサドルを取りつけてみました。必要な工具は六角レンチのみ。ものの10分ほどで終わりました。

デザインもなかなかよく、自転車にマッチしています。新旧のデザインを比較してみると、

新しくした方が、すっきりした感じです。そして実際に乗ってみると、、、、これがびっくり。


驚くほどの快適さなのです。まるでおしりがサドルに吸いつくかの如くの心地よさ。さすがにエルゴノミクスに基づいて設計されているだけあります。ほんとうに感動しました。

また心なしか、ペダルを踏み込む力も増したように感じました。もしかすると、いままでは会陰部に圧力がかかっていて、踏み込む力がセーブされていたのかもしれません。


このサーファスのサドルは男性用と女性用があるのですが、やはり男性用は男性の骨盤の形にあったように設計されているのでしょう。4200円出した甲斐が十二分にがありました。よかった、よかった。


あとは、変速機の交換です。こちらも六角レンチとペンチのみで10分ほどで取り付け終わり。

カリカリと心地よい音を響かせながら、ちゃんと一段ずつギヤが変わるようになってとても快適になりました。

今回の自転車パワーアップ作戦は大成功でした。気にかかることは少しずつでも改善していくと、思った以上にすっきりするものですね。

また日常生活で改善してよかったことなどあったらブログにアップしていきたいと思います。

今回はここら辺で。





2008年11月13日木曜日

糖尿病



本日のインドの乗り物シリーズはバスです。上の写真は前に写真入りのブログでかいたカルカッタの植物園生命は爆発だ! )に行くときに乗ったバスです。

見るかにオンボロですがインドの標準的なバスはこんな感じです。運転手さんも普段着で乗っているので、運転席を離れると誰が運転手なのか分からなくて、行先を聞く際などにたいへん困ってしまう。車内に勝手に神様を飾っている所なんかとてもインドっぽくてほほえましく思う。

こんなバスに慣れしたんでいた私が思わず「なんだこれゃーーー!!」と狂人の如く口走ってしまったのが下のバスです。


このバスはデリーの空港から市内のバスターミナルに行くときに運良く(?)乗れたばすです。キレイすぎる、、、、。これが正直な感想です。


感動のあまりバシバシ写真を撮ってしまいましだか、空港とか駅であまり写真をとっていると警察に捕まってしまうのでほんとうはあまり良くないです。しかし、インドも変わりつつあるのだなぁ、と実感したひとこまでした。

今はデリー市内には地下鉄が走り、2、3年のうちに空港まで伸びるらしいので、せっかくのこんないいバスも利用しなくなるのかと思います。こんなバスを利用する前は、タクシーにぼられて散々でしたが、そんな時代も懐かしくなります。
さて本日は、番組の紹介です。
今度の日曜日のNHKスペシャルで面白そうな番組をやるようです。
11月16日(日) 午後9時~9時49分

病の起源 第5集 糖尿病~想定外の“ぜいたく”~
世界に2億4千万人もの患者がいる糖尿病。欧米人に比べ日本人は糖尿病になりやすい。胎児期の栄養状態がリスクを招く事も判明。人類の歴史に秘められた糖尿病の謎を探る。

私はこの「病の起源」のシリーズをずっと見ていますが、とても面白いです。
前に書いた腰痛で内容には少しふれたことがありますが、人類の起源にさかのぼった視点と現代医学の最先端で分かっていることを照らし合わせて紹介しているので、とてもわかりやすく、かつためになります。
私は録画予約しました。これもいままでずっと書いてきた「」と関連することのようなので、また見て何か感じる事があったらここに感想を書こうかと思っています。

2008年11月12日水曜日

ミクロな視点とマクロな視点



今回のインドの乗り物は、牛車サイクルリクシャーです。

さすがインドと思うのが、この牛にひかせた乗り物ですね。この牛、近くで見るととても巨大で、つい見入ってしまうほどの迫力をもっています。

サイクルリクシャーは三輪の自転車で後ろにお客さんを乗せます。これがギヤもついていないので、漕ぎ始めとかいつもめちゃくちゃ大変そうです。商売道具ならギヤぐらいつける投資をしてもいいんじゃないか?とチャリ通の私は思ってしまうのですが、いまだにギヤを装備したサイクルリクシャーにお目に掛かったことはありません。


さて前回のオバマ氏に関するブログに対してikte2 さんから次のようなコメントを頂きました。

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アメリカではメタボなのは、圧倒的に低所得者、低学歴の方々多く、
高所得・高学歴でセレブな方々は、お金や知識があるので脂肪や砂糖が少ない新鮮で健康なお金のかかる食材を食べれるらしいです
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確かにそうらしいですね。食に関する本を読むと、向こうでは学歴や社会的な地位と食や運動などの健康にに対する関心の度合が比例しているそうです。

特に私が大きいと思うのが、「知識」の差ではないかと思います。というのも、地産地消(地元でとれたものを地元で消費する)を実践し、季節の旬のものを食べれば効率が良くとても安くつくからです。

私が思うに、アメリカは格差が激しいので、同じような傾向を持つ人たちはその人たち同士で集まりやすく、周りが皆同じことをやっていたら特に疑問も持たないのではないかと思います。またそのような健康に対する知識に接する機会が少ない、あるいはそのような知識を吸収する余裕がないということも有るような気がします。

それでは日本ではどうなのでしょうか。
私が見渡す限り、あまりこのような傾向はないような気がします。ただ傾向として二極化しているように思います。知っている人はちゃんと毎日の生活の中に取り入れて実行しているし、知らない人、やらない人はまったくいままでのままの生活スタイルを続けているように思います。


私は効率がいいことは正しいことだと思います。というのも自然、あるいはすべての生き物は効率の良い方向に自らを変えていくからです。
効率がいいとはどういうことでしょうか。私は効率には二種類あるようにおもいます。目先の効率と長いスパンで見た時の効率です。

目先の効率とは、たとえば極端な例でいえばグランドステージの設計偽装にあったような場合です。鉄骨を少なくすれば、安く短期間で出来、また地震で壊れればまた仕事が来るという発想です。しかし一度不正が明るみに出れば、できたものをまた崩して、立て直すというべらぼうな手間がかかります。

長いスパンで見た時の効率というのは、遠回りかもしれないけどちゃんと環境に配慮した設備を整えたりすることで、持続可能な生産、消費のシステムです。これは結局地に足の着いた地道な毎日の積み重ねです。

この具体例が健康だと思います。人が死ぬまで自分の身の回りの事は自分でできる程度の能力(脳力)をキープできるだけで、医療費も社会保障費も人的資源も格段にセーブできるのです。またそのような元気なお年寄りばかりになれば、消費も持続でき、社会に活気が出てくるのです。

もし人を今のように目先の状況を整えるために酷使し続ければ、短期間でみればいいかもしれませんが、長期的に見れば多くの人が早晩病になって社会的には負荷になりとても効率が悪いです。

これにからめていうと、いま国会で審議されている数兆円に及ぶお金のばらまきはどちらになるのでしょうか。私は明らかに目先の効率であるように思います。ただでさえ莫大な借金を抱えているのにまた赤字が膨らんで、借金が借金を呼び、結局は後々痛い目を見るのは私たち自身です。

このような経済状況になったのが、目先の効率を求めた結果なのに同じような発想で対処しようとしているのがとても滑稽に思えます。またどの報道をみても、はやくお金もらえないかな、いくらもらえそうか、といった論調ばかりで、長期的な視点、より根本的なところに立ってものをいっている人が見受けられません。

ミクロな視点とともに常にマクロな視野をもっていたいものだと常々思うのです。

2008年11月9日日曜日

無農薬と減農薬の大きな隔たり

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先日船井幸雄氏のHPを読んでいたら、引用されている記事に農薬のことが書かれていました。

それによると、減農薬というのは農薬散布の回数を減らす分、強力な農薬を使っていることがあるそうで、減農薬という言葉にだまされないようにとのことが書いてありました。

著者の中村陽子さんは文章を次のように締めていました。

減農薬は、無農薬への途中段階というイメージがありますが、まったくつながっている世界が違うのです。無農薬は、生物多様性の平和な世界に、減農薬は生態系崩壊の世界につながっているのです。」

新米の季節になり、減農薬ならふつうのお米よりヘルシーでいいかなぁーなんて思っていたら、とんでもないことなんですね。無知ってこわいです。実態を知っている農家の方は決して食べないんでしょうね。


玄米原理主義者の私は、お米は断然JAS印の有機にします。

参考:
船井幸雄氏のHP
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200811002
中村陽子さんのHP
http://medaka-yoko.seesaa.net/

2008年11月8日土曜日

バラク・オバマ氏の演説


前回に引き続き、写真を合成してみました。これからは合成写真シリーズとして
インドの乗り物特集
を載せていこうかと思います。本文とは関係ありませんが、、、。


今回の写真は最も原始的なリクシャー(人力車)です。これはインド広しといえども、もうカルカッタ(現在はコルカタと呼ぶ)にしか残っていません。
そしてすでにインド政府は人力車の免許をいま営業している人以外には発行しないそうです。ということは、この人たちがいなくなった時点で、インドで人力車を見ることはなくなるのです。これも時代の流れなんですね。
左下の写真で交差点で待っているオートリクシャー(三輪のタクシー)が見えます。何か時代の流れを暗示するような絵となった気がします。

さて本日ニュースを見ていたら、オバマ氏の演説をやっていました。ジョークの意味も込めて、目下の重大決定事項のひとつは犬についてだと言っていました。ホワイトハウスで飼う犬のことです。
そして犬を飼う事自体は決定しているそうなのですが、その犬は施設に保護されている犬から選ぶといっていました。それも自分のような雑種にすると。(オバマ氏は白人と黒人のハーフ)

私はこれを聞いた時、すごい人だなと感じました。トップに立つ者が率先して保護されている犬を飼うというのです。もしかしたら政治的な戦略の一環なのかもしれません。
しかし私には彼の個人的な体験に根差した信念が彼にそうさせるのだと感じます。トップに立つ者が率先して模範的な行動を示し、多くの人の意識を喚起する狙いがあるのだと思います。
アメリカは変わる、と私は強く感じました。アメリカだけでなく、時代の先駆けとなる新しいタイプのリーダーが誕生したように感じました。

オバマ氏は47歳ですが、見かけは20代後半にも見えます。肥満の多いアメリカ人の中で、彼はどのようにあのような若さ、スマートさを維持しているのでしょうか。とても興味深いところです。おそらく食事と運動には気をつけているのではないでしょうか。

政治手腕も含め、これから注目していきたい人物です。

2008年11月6日木曜日

写真の結合



↑写真をクリックすると拡大します



これは、ダージリンで撮ったトイトレイン〔Toy Train〕の写真四枚をくっつけて一枚にしたものです。

複数の写真を結合させて一枚の写真にできないかなぁ、、、

このような疑問を一度は抱いたことのある人は多いと思います。

私も前からどうやったらできるのかと疑問に思ってきました。

というのも、たとえばヤフオクなんかで出せる写真は限られているので、一枚の写真の中に複数枚を取り込めたら便利だなぁ、と思っていたのです。

ワードやアドべ、写真ソフトなどのヘルプを見てはいろいろ調べていたのですが、なかなか答えを見つけだすことができずにいました。

しかしふと、

ネットで検索すればいいんじゃないか?

と思い立ち、「写真 合成」でグーグル検索してみました。

すると探していた疑問が一発で解消されました。

これこそネットの醍醐味ですね。

みなさん同じような疑問をもっているし、知っている方の知恵をすぐに拝借できるというのは、本当にありがたいことです。


さて私がヒットしたHPは以下のものでした。

≪Yahoo!知恵袋≫
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011421925

これのベストアンサーがとても便利です。

マイクロソフト・ペイントは誰でももっているのでタダでできるし、やり方も簡単です。

灯台元暮らしですね。でも知らないとほんとただの宝の持ち腐れで、もったいないです。

分からないことがあったら、即ネットで検索!

というのを今後の習慣としていきたいと思う今日この頃であります。


2008年11月4日火曜日

タブで一気に開く

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コンピューターのことで今日気づいた便利な方法を紹介します。

前はコンピューターを立ち上げたときにエクスプローラーも自動で立ち上げる方法を紹介しました↓。

「すべてのプログラム」内の「スタートアップ」フォルダに立ち上げたいプログラムのショートカットを入れておく。

今回は頻繁に見るページをタブで横並びに一気に開いてしまう方法です。

私は画面の左に「お気に入りバー」を常時出しておいているのですが、よく見るページをフォルダにまとめて入れておきます。

そしてそのフォルダの上にポインタを持って来ると右側に矢印がでてくるので、その矢印を押すと、ビビッと見たいページがタブで横一列に一気に開くのです。これはとても便利です。これに気付いた時には感動しました。


たとえば良く見るニュースや天気などの情報を一つのフォルダに入れておけば、ワンクリックでババッとすべてのページが一気に開けてしまうのです。

また本の検索などで私は図書館の検索窓やアマゾンをそのたびごとにひらいていたのですが、これも一つにまとめておくと、本の検索画面が一気に開いて、たとえば作者の名前をctrl+cでコピーしておいてすべての窓にじゃんじゃん張り付けていくと情報どんどんでてきて超便利なのであります。

ただしこの方法は画面の上にある「お気に入り」ボタンからでてくるフォルダではできないようで、ただ矢印に従って次々にフォルダの中身が表示されるだけですね。

画面左に「お気に入り」を表示させるためには、メニューの

表示→エクスプローラーバー→お気に入り

でできます。一度やってみてください。
(私のOSはvistaですが、もしかしたら他のosじゃできないのかな?出来た方は是非感想を聞かせて下さい)

2008年10月19日日曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その四

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本日NHKスペシャルで前回の後編となる番組が放映されます。

10月19日(日)午後9時~9時59分

世界同時食糧危機(2)食糧争奪戦 ~輸入大国・日本の苦闘~
世界各地で食糧の安定確保に向けての動きが加速している。大豆調達に苦しむ日本の味噌メーカー、ウクライナを舞台に繰り広げられる農地争奪戦などを通して、食糧輸入大国・日本の進むべき道を考える。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081019.html

また前回の放送を見逃した方は火曜の夜に再放送があります。

2008年10月21日(火) 深夜 【水曜午前】0時55分~ 総合

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/rerun/index.html


さて最近菜食についてのブログを書いているせいか、ふと英語のvegetableが何に由来しているのか疑問に思いました。単語の構成はveget が able するというわけです。調べてみると、ラテン語

vegetare (速める、元気づける)+ able(能力のある)⇒ 元気づける力のある

という意味であることが分かりました。
これはまさにシュタイナーが菜食にすると「人は活発になる」「疲れにくくなる」といったことと関連していて興味深いところです。昔のひとも野菜を食べる事で活力が得られることを実感していたのでしょう。

この語源からは他にvigor(活力のある)やvigil(徹夜)などがでているようで、特に最後のvigilの原義は「目覚めた」という意味なので、シュタイナーが菜食に対して「霊的なものに敏感になる」「ものをよく考えることができるようになる」「事物の壮大な関連を見上げることができる」と述べている精神的な「目覚め」とからめて考えると面白いと思います。

私自身の体験から、菜食にすると澄んだ活力に満ちた状態になるという感じがあります。特に暑い中でへばらなくなるので、こんな暑い中でどうしてそんなに元気なの?と聞かれることがあります。そういうとき私は

「惑星ヴェジータで育ったんで、、、あそこは重力が地球の10倍だったから」

と冗談をいいます(ドラゴンボールを知らない方スミマセン)。私がヴェジタリアンなのを知っているのでこのギャグはなかなか受けるようです。

余談になりましたが、今回シュタイナーの菜食観の最後として総まとめ的な記述を引用します。

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肉食は本能的な意志を燃え立たせるのが体験されます。無意識に情念と情動のなかを流れる意志のいとなみが、肉食によって燃え立たされるのです。ですから、好戦的な民族は平和を好む穏やかな民族よりも肉食を好むというのは、まったく正しいのです。菜食にすると勇気や活動力がなくなるのではないか、と思う必要はありません。肉食をやめることによって、本能や攻撃的な情念、情動を失いますが、それらすべては内面から魂によって補われます。(p.138-139)

肉食をすると、人間は地上に束縛されます。肉食をすると、人間は地上の被造物になるのです。「肉食の作用が身体に浸透すると、地球から解放される力を失う」と、いわねばなりません。肉食をすることによって、人間は地球と強く結びつきます。

<中略>

菜食にすると、人間を宇宙に結びつける力が刺激されます。植物を消化するときにおこなわれなければならないことが、太陽系全体に含まれている力を刺激し、人間の物質体は太陽系全体の力に関与するようになります。菜食にすると、物質体は太陽系から疎外されないのです。人智学的あるいは秘境的な修行を積んだ魂は、菜食にすると地上の重さではなく、惑星系の中心である太陽からなにかを受け取るのを体験します。菜食によって得られる身体の軽さが、地上の重さを取り去ります。

(p.140-141)

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参考:
ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月18日土曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その参

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今日知ったのですが、コンピューターの

「すべてのプログラム」→「スタートアップ」

のフォルダ内にコンピュター起動時に立ち上げたいプログラムのショートカットを入れると、それが自動で立ち上がるようになるんですね。ここにインターネットエクスプローラーのショートカットを入れておくと、すぐにネットが出来て便利になります。


さて、昨晩やっていたNHKスペシャル

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081017.html

の録画したやつを本日見ましたがとてもよくできていて素晴らしい内容だったと思います。これはちょうどいまブログで菜食のことを書いていることと重なるのですが、日本がいかにアメリカの政策によって肉・卵・牛乳を食べさせられるようになったかがわかりやすく説明されていました。

大きな流れとしては、

アメリカが大量の余剰穀物の処理に困る
→日本に肉、卵、牛乳がいかに健康にいいかを刷り込む、給食にパンや牛乳を主体としたものを導入する
→日本において牛、豚、鳥などの畜産が進む
→餌としての大量のトウモロコシを購入せざるを得なくなる

とこういう流れになっていました。そして日本のケースが成功例となって全世界にこの手法が適用され現在の世界的な穀物不足の状況を生み出すに至ったという訳です。

現在はちょうど中国で同じことをやっている映像が流されていましたが、小学校に筋肉ムキムキのお兄さんが来て、牛乳を毎日飲むとこんな体になるんだよ、という宣伝をしていました。

振り返ってみると、ここまであからさまな刷り込みを受けた覚えはありませんが、なんとなく「牛乳は体にいい、骨が強くなる、背が伸びる」などのイメージを知らず知らずのうちに先生をはじめとする周りから吹き込まれていたような気がします。この呪縛から解放されたのはひとえに『エコロジカル・ダイエット』を読んでからでしたが、こういういい加減なことが平気でまかり通っているというのは本当に驚きです。

なぜ牛乳を一番消費しているアメリカに骨粗鬆症が多いのか、あるいは肉食の量とガンの発生率の統計などをしっかり見ればいかにウソ情報に慣らされてきたかがよくわかります。

しかしNHKの番組を見ていて、ナレーションが

健康のバランスを保つために欠かせない肉や乳製品、卵などが高騰して云々、、

という説明をしていたのは可笑しかった。番組内でいかに日本人が刷り込まれてきたかを説明しているのにも関わらず、あたかも肉や乳製品を食べないと死んでしまうかのような調子で話していたからです。刷り込みとは恐ろしいものですね。

もしこれが事実ならこれらの食品を食べてない私はとっくに死んでいるし、昔の日本人はみな栄養失調状態でかろうじて生きてきたということになってしまいます。

番組内では、世界中でいかに毎日の食事の量が減ったかということをやっていましたが、これは逆にいいチャンスなのではないかと私なんかは思いました。食糧がないことを嘆くのではなく、逆に何を食べるべきなのかを冷静に見直すいい機会ではないかと思うのです。

たとえばユダヤ人強制収容所での実体験を書いたV.E.フランクル著『夜と霧』などを見ると、収容所に入って逆に健康になったユダヤ人がいたことを不思議がっている記述があり、また『エコロジカル・ダイエット』によると第二次大戦中に肉が食べられなくなったことによって逆に国民の健康状態が良くなったという報告をしているヨーロッパの国もあるようで、むしろ欲にまかせて好き放題たべているほうが体によくないのは明らかなように思います。

前にもこのブログで書いたように、私は肉、乳製品、卵の類はふだん食べないので食品が高騰しているといってもまったく実感がないのです。私の頭の中では、海パン一丁の小島よしおが「そんなのかんけーねぇー」と踊っています(笑)。

菜食にすると本当に体がすっきりして軽くなります。逆に外食などで肉を食べると肉ってこんなに重かったのかと驚いてしまいます。そして焼き鳥屋や焼き肉店などの前から肉の焼くにおいがして来ると、うっ、と思わず息をつめてしまうようになりました。死肉の焼けるにおいがしてきたという感じです。ちょうどタバコのにおいをかいだときと同じ感覚ですね。

今回書いた内容に重なるシュタイナーの言葉を引用して今回はおしまいにします。

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子どもが砂糖をなめるのは、栄養のためではありません。子どもがなめる砂糖には栄養になるものがいくらかありますが、しかし、子どもは栄養のことを考えて砂糖をなめているのではなく、甘いからなめているのです。砂糖をなめるときには、甘さが意識されます。牛や豚の脂肪を食べるとき、子どもが砂糖をなめて喜ぶように、快楽を満足させているのです。もちろん、人間は生きていくうえで、そのような内的な快楽を必要とします。ですから、肉が好まれるのです。肉が好きだから、肉を食べるのです。

しかし、狂信的になってはいけません。肉を食べなければ生存していけない人々もいるのです。ほんとうに肉なしで生きていけるか、入念に吟味しなければなりません。しかし、肉なしでも生きていける人が、肉食をやめて菜食にすると、以前よりも壮健になったと感じます。難しいのは、多くの人が肉なしでは我慢できないということです。しかし、肉食をやめ、菜食にするなら、壮健になるのを感じます。脂肪を外から堆積させるのではなく、自分自身の脂肪を作ることになるので、壮健になるのを感じるのです。

この二十四年間、わたしは多忙な日々を送ってこなければなりませんでしたが、菜食にしていなければ、それらの日々に耐えることはできなかったでしょう。夜通し旅行し、つぎの日に講演をするというようなスケジュールをこなすことはできなかったでしょう。菜食にしていると自分の体内でおこなわなければならないことが、肉食だとなくなるわけです。しかし、わたしが菜食主義を宣伝しているとは思わないでください。菜食にするかどうかは個々人の問題であって、菜食だけで生きていけるかどうか、慎重に吟味しなければなりません。(p.73-74)

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参考:
ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月17日金曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その弐

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前回とほぼ似た内容になりますが、肉食と菜食の違いをシュタイナーは次のように述べています。

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アジアの住民の一部は厳格な菜食主義です。彼らは温和な人々で、ほとんど戦争をしません。中近東の人々は肉を食べます。彼らはよく戦争をします。肉食をしないアジアの民族は、植物素材を肉に変えるために自分の力をつかっているのです。そのために、彼らは温和なのです。肉食をする民族は温和ではありません。
人々は次第にこのような考えに到達します。ただ、肉を食べる人は、このような考えにいたることができません。

<中略>

菜食には大きな価値があります。菜食にすれば、かんたんに疲れることはなくなります。尿酸塩が分泌されないので、疲れなくなるのです。疲れなくなると同時に、頭に尿酸塩が留まっていないので、ものをよく考えることができるようになります。肉食をしている人が使用しない力を、菜食をする人は使うのです。ただ、そもそも思考しない人は、菜食にしたからといって、どうなるものでもありません。
(p.116-117)

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菜食にすると疲れなくなるという記述ですが、私はこれを読んだときあるエピソードを思い出しました。

それは明治期に、お雇い外国人としてきたある教授が、人力車の人夫を見て肉を食べないのにどうしてそんなに走れるのか疑問を抱き、ある実験をしたのです。

一方には牛肉を、もう一方にはいつも通りの握り飯を食べさせどちらが先にへばるか比べてみたのです。結果、牛肉を食べた方はすぐにへばって動けなくなってしまったものの、いつも通りの握り飯を食べていた方は、翌日まで走り続けたそうです。

これは普段食べなれない牛肉を食べたということもあって単純に比較はできませんが、肉を食べるとパワーが出るというのはある種の信仰だと思います。一流のアスリートでタンパク質を植物性のものからとるようにしている選手もいるぐらいなので、自分で食事を変えて確かめてみるのが一番かと思います。

ただ心がパワフルになること、体がパワフルになることは違うのでそこら辺をよく見極めないといといけないと思います。

シュタイナーの図式でいうと以下のようになります。

肉食=:勇敢、戦闘的になる、:疲れやすくなる
菜食:穏やか、明晰になる、:疲れにくくなる


また菜食にすると暑さに対する感覚も変わってきます。前にこのブログでも取り上げたように(バラモンの菜食主義 2)、菜食をしていると暑さをあまり感じなくなります。従って菜食の人は夏にその真価を発揮するように思います。

参考:

ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

2008年10月16日木曜日

ルドルフ・シュタイナーの菜食観 その壱

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はじめに、
前回の食糧難関連情報として、明日10月17日(金)午後7時30分~8時43分NHK総合で、

世界同時食糧危機(1) アメリカ頼みの“食”が破綻する
http://www.nhk.or.jp/special/onair/081017.html

という番組をやるようなのでお知らせしておきます。一見の価値ありと思います。

さて前回のブログの中で再び肉食の環境に対する負荷、その効率の悪さを取り上げましたが、今回から何回かに分けて、ルドルフ・シュタイナーが食、特に菜食と肉食の違いについてどのように述べていたかを取り上げたいと思います。

参考文献:

ルドルフ・シュタイナー/西川隆範 訳 『シュタイナー 健康と食事』 イザラ書房 1992

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つぎのようなことを考えてみてください。いろいろな道具を使って家をたてるとします。原始的な道具を使って家を建てるなら、自分の意図どおりに建てられます。三、四人の人がすでに準備した家を、その人たちといっしょに建てる場合はどうでしょうか。仕事は楽になるでしょうか。そうはなりません。すでにまえもって下ごしらえができているものを使うと仕事が楽になる、という考えがあります。しかし、原始的なものを使用することによって人間は活発で、独立した存在になるのです

<中略>

人間が神経組織をみずから構築するなら、その神経組織は精神的=霊的なものに対して敏感になります。個人という狭い限界から発する偏見を超えて、事物の壮大な関連を見上げることができるのは、菜食のおかげなのです。大きな観点から自由に人生と思考を整頓できるのは、菜食のおかげです。怒り、偏見に狂うのは肉食のせいです

しかし、わたしは菜食主義を扇動するものではありません。肉食は人間にとって必要なものでした。今日なお必要なものです。地上の人間は堅固であらねばならず、個人的になるべきだからです。人間が個人的な興味を抱くのは、肉食のおかげなのです。戦争をしたり、共感や反感を持ち、感覚的な情熱をもつ人間がいるのは、肉食にその原因があるのです。人間が狭い興味に夢中にならず、普遍的なものに興味を持つのは、菜食のおかげです。

菜食を好む民族は霊性への素質を有し、そうでない民族は勇敢で、果敢です。勇敢さ、果敢さというものも人生には必要です。勇敢さ、果敢さというのは、個人的な要素なしには持つことができません。そして、個人的な要素は、肉食なしには存在しません。

この問題を、きょうは、まったく一般的、人間的な観点からお話しします。人間は肉食によって個人的な興味に没頭できることが明らかになります。しかし肉食によって、存在を概観するための人間の感覚は濁ります。「自分はどのようにしたらいいのかわからない。彼がどのように、それをなしたのかわからない」というように思うとき、それがいかに食べものに原因しているかは、たいてい気づかれていません。

全体の関連を見通すことができないのは、食べものにその原因があるのです。全体の関連を見通せることの場合、その人がなにをたべているのか、そしてその人の祖先がなにを食べていたかにその原因があるのです。祖先が基礎づけたものを一つの人生でくつがえることは、往々にして困難です。
(p.16-19)
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シュタイナーが、食を建築にたとえているのは面白いと感じます。すでに出来上がったタンパク質を自らの材料とするより、原始的な材料から自らの体を構成する方が人は活発になると述べています。

私はこれを読むとき、狂牛病を思い出します。狂牛病の原因とされるプリオンについてはいまだよくわかっておりませんが、驚くべきことにタンパク質のような生物(?)だと言われています。

人間の消化といのは食べた物を分子レベルまで分解して自分の体にあったように再吸収しているのかと思いきや、実は利用できるものはある程度そのまま利用しちゃっているみたいです。そうでなかったら、プリオンの入った肉を食べる事でそれが人間の脳に至って脳みそをスカスカにしてしまうことなどないはずです。

シュタイナーが「原始的な道具を使って家を建てるなら、自分の意図どおりに建てられます」というこのたとえは真理をついているのかもしれません。


シュタイナーによる肉食と菜食の違いをまとめると以下のようになります。

肉食=怒り、偏見にとらわれる、興味の範囲が個人的なものになる、勇敢・果敢な性質を帯びる、物事を概観するための感覚が濁る

菜食=霊的なものに敏感になる、事物の壮大な関連を見渡すことが出来る、普遍的な興味をもつ、霊性への素質を有す

シュタイナーは肉食を否定しないまでも、全体としては菜食をすすめています。特に精神的な道を志すひとたちには菜食を勧めています。あとがきには以下のようにありました。

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シュタイナーは、一九〇四年に行の伝授を目的とした秘教学院の開始にあたって、

酒は脳に作用して、霊的な器官を破壊し、修行が不可能になるので、酒類は一切禁じる。肉食は禁じないが、肉食をしないと低次の性質との戦いが容易になるので、肉を食べないほうがよいということに注意するように

という規則を作っている。(p.162)

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2008年10月15日水曜日

ジュセリーノ氏の予言

先日テレビ東京でブラジルの予言者ジュセリーノ氏の特番をやっていました。

http://www.tv-tokyo.co.jp/jucelino2/

その中で今回は5つの予言をしていたのですが、第5の予言で2011年から水をめぐる戦争が勃発するということを述べていたのは注目に値すると思います。

というのも、前に挙げたダニオン・ブリンクリー氏(ダニオン・ブリンクリー氏とその予言)も水をめぐって戦争が勃発するだろうと述べているからです。

◎石油、金(きん)、ドラッグ、あるいは 宗教的狂信とテロリズム、に対する戦争は2010年まで続く。また2014年まで水めぐるを争いが中東、中南米、そして合衆国において勃発する。

このまま地球温暖化が進み、地域によっては豪雨、別の地域では乾燥が進行するなど降雨の両極化がすすめば、飲み水や農業用水などをめぐって実際に戦争も起こりかねないと思います。何せ人間に必要なものは空気に次いで水なのだから。

この第5の予言の解説のなかで、食品とそれに必要とされる水の説明がなされていたのですが、これは予言の内容とは別にしてとても為になるものでした。

肉はあらゆる食品の中でもっとも水を消費する食品だそうです。牛丼1杯で2000リットルの水が使われているそうです。前に私のブログでも説明しましたが(菜食主義を考える )、肉を食べるというのはとても環境に負荷のかかることなのです。

番組内では次のように説明していました。牛肉に大量の水が必要なのは、牛の飼育のためにその飼料となる穀物を育てる必要があるからで、その量は肉1kgに対して穀物11kgだそうです。

つまり一回に食する肉を100gとすると、そこにかかっている穀物は1.1kgになります。これは一食分の穀物を50gとすると22食分にあたります。倍の100gとしてもおよそ10食分の穀物にあたるのです。食肉がいかに効率の悪い食べ物かがよく分かります

また食料関連では、第4の予言で2011年までに世界的な食糧危機が訪れ、日本人も多く飢えで亡くなるといっていましたが、最近の精神世界のことを少しでも勉強している人たちの間では、今後の3年間ぐらいの食糧を備蓄しておくのは常識のようです。特に今年はお米が豊作なので先を見越して買い置きしておく必要があるのかもしれません。

温暖化になれば米はもっととれるのではないか?と思いがちですが、たとえば稲の受粉の時期に気温が高すぎると受粉せずに米が全くできないという状況が発生するそうです。また台風の大型化や異常な降雨による日射量不足など、温暖化しても米は大丈夫だろうと考るのは甘いようです。

参考:
テレビ東京:ジュセリーノ特番
http://www.tv-tokyo.co.jp/jucelino2/

伊勢白山道さん9月10-12のブログ(フトノリト玄米への道 その1~3)
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/m/200809/1

船井氏のブログ
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200806008

2008年10月14日火曜日

千里の道も一歩から 其の参



大きなことも足元の一歩から始まるというのは確かに真実ですが、それと同時に大事なのは、

いまここにすでにゴールがある

という考え方だと思います。


私が好きなゲーテの言葉に次のようなものがあります。

いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない。

(エッケルマン『ゲーテとの対話』より)


特に精神的な教えを実践していく過程で大事なのはこの発想、すなわちすでに

いまここに完全なる悟りの境地がある

という視点だと思います。これは顕教的な考え方と密教的な考え方の違いということもできます。


つまり、いまは不完全だけど修行を積み重ねていくことによっていつか完全になるという顕教の考え方に対して、

すべては大いなるものの顕れであるのだから、努力してどこかに達するというのではなく、自分が完全なる境地の中にすでにあるという感覚(密教的観点)をもって毎日を送っていくということです。

たとえるなら、宇宙に行きたいと思って様々な段階を踏んで地球から飛び立とうというのが顕教的な発想であるとするなら、

密教では地球自体すでに宇宙の一部であるという考えに基づいているといえるかもしれません。


したがって自分はすでにゴールである宇宙にいるという感覚を持ちつつも、この現実界で一歩一歩あゆんでいくという両方の感覚をもって生きていくことが肝要なのかもしれません。


時に思うのですが、私たちはある意味近視なのだと思います。

目の前にあることに焦点を合わせることに慣れ過ぎてしまって、遠くのものに焦点を合わせられなくなっているという状態です。

あるいは一種の健忘症といえるかもしれません。

仏陀やキリストなどの聖人といわれる人たちは、特別なことを悟った、感得したというより、我々のあるがままの本質を思い出した人といえるような気がします。


数日前から庭の金木犀が満開となりました。



金木犀のこの独特の甘い香りを嗅ぐと天国にいるかのようなやさしい気持ちになります。


私は外でふと花を見かけたりすると、その完全さとともに聖書にあるキリストのことばを思い出します。

老子も仏陀もキリストもおそらく同じような境地に至っていたのだろうという気がするのです。


野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

〔ルカ12-27〕





2008年10月10日金曜日

千里の道も一歩から 其の弐



前回に引き続き、今回は『老子』の口語訳をのせます。

-------老子道徳経第63章--------

何もしないことをわがふるまいとし、かくべつのこともないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。

小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとし慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。

むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する

世界の難問題も必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。

それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。


そもそも、安うけあいでは必ず信義にとぼしくなり、いいかげんな容易なことばかりしていると、必ず難儀なことが多くなる。

それゆえ、聖人でさえもなおむつかしいとすることがあって、だからこそついにむつかしいことは何もなくなるのだ。

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以下はこの章に関する解説です。


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無為の実践のありかたを具体的に示した親切な章である。

無為を為す」とか「無為を事とする」などというのは、矛盾したことばであって、当然にもそのむつかしさが予想される。

しかし、『老子』の考える理想的な実践のありかたは、そうした矛盾と思える逆説的な言いかたでなければ、表しようがないのだ。


「無為」や「無事」は、したがって文字どおりに何もしないこと、あるいは何事もないことではない。

何もしないようにみえて、実は何もかもをなしとげており、

何事もないようにみえて、実はすべての事が備わっている


そうしたありかたをわがふるまいとし、わが仕事としていくのである。


では、はっきりしたわざとらしい形をとらない、何かをしたという跡を残さない、そうしたやりかたで万事を処理していくのが無為の実践であるが、それはどのようにして果たされるのであろうか。

聖人は終(つい)に大を為さず」が、その解答である。


事態が困難になり、問題が重大になれば、どうしても大きな目だったことをしなければならない。

そうなる前の小さい易しいうちに、さきの大事を見こして人の知らない手をうっていくのである。

それにはまた、ものごとに慎重でなければならない。軽率な承諾やイージーな進みかたは慎むべきである。

聖人すらなおこれを難(かた)しとする」、むつかしいと考えて慎重な態度でのぞむのである。

-------引用終了---------


無為というのは、大きな流れにまかせるということであり、それが結局一番楽なありかただということだと思います。

それでは何もしないのかというとそうではなく、初めに方向をピシッと決めて、あとは自然に任せるということだと思います。


ちょうど種をまくのは人間の行為であるのに対して、植物がそだっていのは自然にまかせるのに似ているかと思います。

でもふつう人は、種をまいたあとももっと早く成長させよう、もっと見栄え良く育てようなどと思い、いろいろ手をかけ、不自然な努力してしまうのだろうと思います。


この老子の無為の考え方は、前に挙げた
神道のこころ の著者が述べている「生かされている」という想いとも通ずると思います。

「自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。」

結局この世界は大きな力が働いていて、その力にそって生きていけばうまくいきようになっているのだと思います。

最終的にはこの大きな力とひとつになること、そもそものはじめから大きな力のひとつであることを思い出すことが、人間がこの世で生きていることの目的なのかもしれません。



参考:

金谷治『老子』講談社学術文庫 1997


原文のスキャンしたものを見れます↓
http://cid-751b07d8b4bfc39b.skydrive.live.com/browse.aspx/%e5%85%ac%e9%96%8b/%e6%9c%ac%e3%80%94book%e3%80%95/%e8%80%81%e5%ad%90





2008年10月8日水曜日

千里の道も一歩から



私はよく、何かやらなければならない大きなことがあるとき、いつもこの


千里の道も一歩から


を思い浮かべます。そして「ひとつ、ひとつ、、」と心の中で自分に言い聞かせ、いま目の前にあることに集中しようと心掛けいます。

人はつい現在から心が離れ、過去や未来ことに心がさまよいがちですが、目の前のひとつ、ひとつのことに集中するというのは大切な心の習慣だと思います。

最近知ったのですが、この「千里の道も一歩から」は老子のことば

千里の行も足下より始まる。千(里之行、始於足下)
≪老子道徳経第64章≫

に由来するものだそうです。

もともとの意味を見てみると、

大きな問題もその兆しは小さなことから始まっているので、賢い人はそれに注意し処置をする」

という意味で使われており、よく使われるような、

「膨大なこともひとつひとつ積み重ねによって達成される」

という意味ではありませんでした。


本文の前後を読んでみると実に、現代においても示唆に富む内容だったので、第64章の全口語訳を載せておきます。

---------老子道徳経第64章-------------

安定しているうちはそれを維持しやすい。兆しのあらわれないうちはそれを処置しやすい。もろいうちはそれを溶かしやすい。かすかなうちはそれを消しやすい。

だから、まだなんでもないあいだに問題を処置し、まだ混乱にならないうちに事態を秩序づけておくことだ

ひとかかえもある大木も毛さきほどの小さい芽から生まれ、九層の高台もひと盛りの土の積みあげから起こり、

千里の遠い旅も足元の一歩から始まる

そうした微妙な始まりに注目しないで、何かことさらなことをするものはそれをぶちこわすことになり、何かをむにりつかまえておこうとするものはそれを失うことになる

それゆえ聖人は、ことさらなことは一切しないからぶちこわすこともなく、何かをつかまえておこうともしないから失うこともないのだ。

人民が仕事をするときは、いつもほとんど完成しそうになったところで、だめにしてしまう。

初めのときと同じように、終わりぎわまで慎重にしたなら、仕事をだめにすることはないのだが、人民は欲望と知識にひかれて慎重を欠くのだ

それゆえ聖人は、人びとが欲望を起こさないようにと願って、手に入りにくい珍品を貴重としたりはせず、人びとが勉学をしないようにと教えて、知識を求める大衆のゆきすぎをもとにひきもどす。

こうして万物のあるがままのありかたを助けて、自分からことさらなことは決してしないのだ

-------了---------

この章の解説には次のように書かれていました。

--------------

ものこどは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきである

それでこそ

無為の実践

が可能なのである。

荒療治を必要とするよう大事になったり、成功しそうなところで失敗したりするのは、みな欲にひかれ知にとりつかれるためであって、

だから、聖人は不欲不学をひろめて、万物の自然なありかたにまかせていくのだという。

--------------


聖人は問題を小さい兆しの内にを処理するが、凡人は欲にひかれて問題を大きくしてしまうというのは、現在の金融不安などを見ても当てはまるという気がします。

また国でいえば政策はそれにあたり、それゆえ政治家を選ぶ選挙が如何に大事かということであり、また個のレベルでいえば健康などもその部類に入るかと思います。


先日、うちの庭木の剪定をしたのですが、

ひとかかえもある大木も毛さきほどの小さい芽から生まれ

の如く、大きくなってから太い幹を切ることの大変さを身をもって味わいました。

また「何かをつかまえておこうともしないから失うこともない」というのも真理だと思います。

自分の体も自分の持ち物もすべて神様から一時的にお借りしているものだという認識をもっていれば、必要以上に執着することもなく、ものごとが増減してもそれほど一喜一憂する必要もないのかと思います。

すべては借りものであり、仮のものなのかもしれません。


仏陀の教説の核心は、諸行無常(諸々の現象は変化する)、諸法無我(諸々のものに実体しての“我”というものは存在しない、すべては縁によって仮に成り立っている)、涅槃寂静(煩悩の消え去ったところに寂静の境地がある)の三つですが、すべては借り(仮り)ものという考えは仏陀の教えに底通すると思います。

この第64章は前章に続く「無為の実践」を説くもので、こちらもまたたいへん示唆に富む内容となっているので次回取り上げてみたいと思います。



参考:

金谷治『老子』講談社学術文庫 1997


該当するページをスキャンしました↓
http://cid-751b07d8b4bfc39b.skydrive.live.com/browse.aspx/%e5%85%ac%e9%96%8b/%e6%9c%ac%e3%80%94book%e3%80%95/%e8%80%81%e5%ad%90

2008年10月7日火曜日

腰痛

-
先日NHKスペシャルで

「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」
という内容をやっていました。

タイトルにあるように、「腰痛は二足歩行を始めた人間にとっての宿命」という言われ方がされますが実はそうではないというのが今回の結論でした。
その証拠として挙げられていたのが、一日に狩りで20キロ以上も歩くアフリカの原住民でした。彼らに腰痛を経験したことがあるかと聞いたところ、あると答えた人が8割ぐらい!?しかしそれらは、蜂蜜をとるのに木に登っていて落ちたとか、どこかにぶつけたとかで、ぎっくり腰のように急に痛みがくるなんてことはないとのことでした。逆に彼らの方から「急に腰が痛くなるなんてどこか病気なんじゃないの」と言われていたことが可笑しかったです。

ぎっくり腰は、背骨と背骨の間の軟骨がずれ神経を圧迫することによって発生する痛みですが、アスリートの背骨の断面写真を見ると、ふつうの人よりしっかりした軟骨でした。つまり適度な運動によって新陳代謝が活性化され軟骨は強く維持されるのです。番組内でも、ウォーキングが推奨されていました。

しかし驚いたのは、腰にかかる加重です。体重73キロのひとが普通にまっすぐ立っているときに軟骨にかかる重量は66キロでしたが、前屈しただけでなんと235キロもの加重がかかるのです。これは静止しているときの数値であって、この姿勢でさらに動くとしたらさらにこの何倍かの力がかかることになるのです。いかに物を持ち上げたり、作業をしたりするときの姿勢が大事かということです。

かくいう私もかつて京都で旅館のアルバイトをしていた時は、10段も積んだ御膳を運んだり、布団の上げ下ろしなどの作業をしているなかで、腰痛とまではいかなくても、腰に違和感を覚えるようになりました。

ちょうどその時やはりNHKのある番組で、引っ越し作業員の腰痛をなくすには、腰に負担がかからないように腰を入れてものを持ち上げることに注意するとともに、腹筋と背筋を鍛えることだということをやっていました。これを見た私は、極力中腰での作業はしない物を持ち上げ、降ろす時に腰を入れて行う腹筋背筋の筋トレを実践したところ、腰の違和感から解放されました。ということで腰が痛いという人にはよくこれらの点をアドバイスします。ちゃんとやっている人は、腰痛がなくなっているようです。

前に挙げた健康オタクの水道橋博士の本にも腰痛克服のコラムが載っていて、まさに私の考えと同じものでした。

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俺の持病で、最も長く深刻なのは、椎間板ヘルニアだ。今でこそ、たけし軍団の中でも体を張った仕事をしていない〝ホワイトカラー〟として、腰ぬけ、腰砕け野郎、と非難されることも多い俺だが・・・。<中略>

その後、腰は悪化の一途を辿り、13年前、正式に椎間板ヘルニアと診断され、ドクターストップ。<中略>

以後も年に何回かは、歩行不可能になる事態が続き、椅子に座ったまま、漫才の舞台をつとめた時などは、水道橋博士ならぬホーキング博士講演会の様相であった。<中略>

そこで鍼やお灸、カイロなど様々な民間療法巡りの末、俺が最終的に辿りついたのは、最も単純かつ原始的な腹筋と背筋の強化だったのだ。

イメージとしては、脊椎を割り箸であると考えたら、俺の脊椎は、一度、横に折れた割り箸であり、その折れた先のささくれだった所が、横にはみ出て神経を刺激している状態なのだ。そこで折れた個所を筋肉というゴムテープでぐるぐる巻きにして、二度と折れないよう強化し、ささくれも横にはみ出さないよう、筋肉の圧力で元の状態に収めている。しかし、このゴム=筋肉がゆるんでくると、再び、ささくれ部分が、横にはみ出て神経を圧迫し痛みが出てくる。

この状態をイメージし、腹筋、背筋だけは怠らず、文字通りの粘り腰で続け、もう既に5年以上、深刻な腰痛は回避しているのだから、この方法は功を奏しているようだ。
多くの人が同病相哀れむ国民病の腰痛だが、長く腰を据えた対処をすることが、まさに肝心〝要〟なのだろう。
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このように水道橋博士もホーキング博士状態になることなく筋力アップによる腰痛克服を告白しています。私も毎日欠かさず腹筋と背筋はしていますが、バランス的には腹筋より背筋の方を多めにやる方が体にはいいそうです。

これを知ったのは、バレーダンサーの草刈民代さんの本、『全身「からだ革命」』 講談社 2006 を読んだことによってでした。

この本は自分のガタガタになった体が、ヒーラーの木津龍馬氏のヒーリングや食事の指導、その他の運動療法などによってどのように回復していったかを綴った本ですが、その中で著者が実践したピラティスとともにPNFという運動が紹介されていました。

PNFというのは1940年代にアメリカで誕生したリハビリのための運動だそうですが、PNFの理論によると腹筋と背筋の筋力比は「1:1.2~1.5」らしいです。考えてみると、体の屈曲は前には180度ぐらい曲がりますが後ろにはよくて90度でしょう。つまり人間の体は前により倒れやすくなっている分、それを支える背筋が強くなくてはならないのです。これを知って以降、私は背筋の回数を腹筋より1.5倍くらい多めにしています。(単に回数を増やせば筋力が増すのかは分かりませんが、、、)

だいぶNHKスペシャルの話からそれましたが、放送によると実は腰痛の85%の原因は分かっていないそうでこれには驚きました。だから鍼や灸がもてはやされるのでしょう。特に最近注目されているのが心因性の腰痛で、心的ストレスが腰痛を引き起こす原因になっているそうです。番組内で取り上げられていたのが原因不明の腰痛に悩まされていた作家で、一年間執筆をやめることで腰痛がなくなったそうです。また単純作業でもそこに心理的なストレスが加わると、腰にかかる負担が大きくなるという実験をしていました。

心因性の腰痛というのはもしかしたら“”の流れ、あるいは停滞が関係しているのかもしれません。だから鍼灸が腰痛に効くとも考えられます。これなども前にブログで書いた、ここぞというときに力まないで息を吐くことを実践していれば、気のエネルギーを体の内、特に腰にため込むことなく済むのかなという気がします。

人間の体は複雑だなと思うとともに、とてもよくできていると思います。なにせ何億年もかけて改良を重ねてきたのだから、ほぼ完成形と考えてよいのではないでしょうか。それゆえ、結構日常の簡単な心掛け次第で健康を維持できるものでもあると私は思うのです。

参考:
NHKスペシャル「病の起源 第3集 腰痛 ~それは二足歩行の宿命か?~ 」http://www.nhk.or.jp/special/onair/081005.html

水道橋博士『博士の異常な健康』アスペクト 2006

草刈民代『全身「からだ革命」』講談社 2006

2008年10月5日日曜日

ギンモクセイ

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庭にあるギンモクセイの花が10月になって咲き始めました。

窓を開けておくと、風に乗ってほのかな甘い香りが部屋にやってきます。この香りを嗅ぐとああ、実りの秋がやってきたんだなぁとなんとなくやさしい気持ちになります。


庭にはキンモクセイもあるのですが、ギンモクセイの方が毎年一足先に咲きます。そしてギンモクセイが終わる頃にキンモクセイが咲きだすので、二種類植わっていると花の香りを二倍長く楽しめます。
キンモクセイはいまだにつぼみの状態でした。またキンモクセイも満開になったらアップしようと思ってます。





2008年10月4日土曜日

パンと米

今月10月からまた小麦の値段があがるというニュースを耳にしました。しかしパンは米に比べてもともと割高な食品です。しかもパンは、パンだけを食べるというのでは味気ないので、甘いもの(ジャムや蜂蜜)や油っこいもの(バターやマーガリン)、またその甘いものにつられて今度は苦いもの水気の物(コーヒーや紅茶)が欲しくなります。ということでパンを食べるというのはどちらかというと不経済であり、かつ色々な嗜好品を引き寄せる引き金となっているように思います。

これは逆の側からもまた言えて、たとえばコーヒーを飲むと、それだけでは物足りないから、甘いもの、また乾いたものが欲しくなり、結局ケーキやクッキーなどを食べる事になります。

これに対しお米はどうかというと、水分も程よく含まれ、また味もニュートラルなので、それだけで食べても十分であり、もし加えるとしたら塩気のものが欲しいかなという感じです。そういう意味でお米というのはバランスのとれた素晴らしい食材だと思います。

かつて読んだマクロビオティックの本の中に、西洋人は主食である小麦をすりつぶして粉にし、それを加工してから食べるのに対し、日本などのお米の文化圏では米という穀物をまるのまま食べるため、それが考えの違いにもあらわれるということが述べられていました。

つまり、西洋で科学という“分化”の学問が発達したのはそのような食のあり方が一因となっており、一方、米をまるのまま食べる東洋の国ではそのような物事を全体から分けて考える発想はあまり発達せず、むしろ全体とのつながり自然との調和を大事にしてきたと述べられていました。

なるほど、これは一理あるかもしれないと思いました。前に書いたバラモンの菜食主義 ではありませんが、やはり何世代、数千年にもわたってある同じ食習慣を続けていたら、小麦の文化圏と米の文化圏では自ずと考えの違いというのが出てくるだろうと思います。単に食べるということだけでなく、食べる前の作業というのも含めて、世代を通して刷り込まれる影響というのは相当なものだろうという気がします。


季節はすっかり秋になり、店にはが並ぶようになりました。私が最近ハマっているのは、玄米に小豆と栗をいれて圧力鍋で炊いた、“アズキクリごはん”です。稲作が日本に伝わってきたのは弥生時代のころだと言われていますが、それ以前の縄文時代において日本人は木の実を主食として食べていたそうです。また小豆は古事記にも出てくる日本に古くからある穀物ですが、これの原産地はなんと「インド」だそうです。ということは、縄文と弥生以降の日本人が食べてきたもの、それに私の好きなインドからの穀物が合わさったものが“アズキクリご飯”だったのです。

目の前の茶碗を眺めながら、時にこんな悠久の昔に思いを馳せる今日この頃なのでした。

2008年9月27日土曜日

神道のこころ

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最近よく、伊勢ー白山 道さんのブログを読ませていただいてます。彼は霊的、神的なものを感じる能力がある方のようです。彼の説くところはたいへんシンプルでありますが、同時にとても本質をついていると感じます。(詳しくは伊勢白山道さんのブログまたは、著書『内在神への道』を読んでみてください。)

伊勢白山道さん曰く、最強の祝詞とは、

生かして頂いて、ありがとうございます

だそうです。また続けて

アマテラスオホミカミ・アマテラスオホミカミ

と唱えると良いそうです。
また、ご先祖の方々や神さまに対しては「お願い事」をするのではなく、ひたすら感謝をすることが大切だといっていますが、これと共通する「感謝することの大切さ」を説いた話を最近読んだ本の中に見つけました。

『神道見えないものの力』 葉室頼昭 春秋社 1999

という本です。作者は春日大社の宮司の方ですが、もとはお医者さん(大阪大学医学部卒)という変わった経歴の持ち主で、不思議なことに御親族は(たとえ血がつながっていなくても)みななぜか最終的には宮司をしているという変わった家系のようです。

この本のなかでは、生かされるいることに対する感謝の気持ちをもつことの大切さが説かれていて、なるほどなと思わされる点がたくさんありました。また「自殺」についてや「はたらく」ことの意味の解釈も面白かったのでついでに載せておきます。


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バランスと真実の健康

日本人は、罪・穢、つまり我欲によってバランスが崩れることを知っていたから、常に我欲をなくして、神さまに生かされている生活を目指してきたのです。これは自分でバランスを整えようとしなくても、神さまはちゃんとバランスが整うように、人間の体をしてくださる。そういう考え方です。これが生かされているという考え方です。

自分で生きているというと、自分でバランスを整えなければいけない。不可能ですよ。百パーセントのバランスを自分の力で維持するなんていうことは、できるわけがない。歯を一ミリ削ってもバランスが崩れるわけですからね。

ですから、そんなことができるわけがないから、日本人は罪・穢を祓いましょう。我欲を亡くしましょう。すべて神さまに生かされる生活をしましょう。そうしたら神さまはバランスを整えてくださって、健康な生活をさせてくださる。そういって昔から真実の生活を送ってきたのです。これは最高の生き方だと思います。

ところが、外国人は、薬とか何かで、自分の力で健康を作ろうとするでしょう。そこで間違ってきてしまうんです。ですから、私は日本人の、つまり神道の考え方というのはすごいと声を大にして言っているのです。世界にまれなる考え方ですから、これを実践している日本人が世界を救うというのは当たり前なんです。何でもないようですが、しかしすべて我欲をなくす生き方というものが、これからの人間の生き方の目標にならなくてはならないでしょう

<中略>

人間の体というのは疑いようもなくバランスで健康が保たれているのです。それは人間の力だけではほとんど不可能です。ですから、「ありがとうございます」と神さまに感謝しなさい。そうしたら我欲が消えてバランスが整います。薬の何百倍も効くパワーが生み出され、病気を消し、バランスを整え、健康になるのです。

<中略>

ですから、病気でも何でも不幸なことは、感謝というものの大切さを分からせるために与えられた神さまのお知らせだと思うんです。さっきも言ったように、夜を知らせるためにはまったく反対の昼を見せなければ、夜が分からないのと同じように、病気というのもを見せなければ、健康のありがたさというのは分からないんですね。

神様はすべて正反対のものを見せて、本当のものを知らせようということなんです。これが自然の仕組みです。神さまがいらっしゃるなら、なぜこんなに不幸があるのか、悩みがあるのかと言う人がいますが、そういうものがなければ、本当のありがたさというのは分からないんです。

<中略>

ですから、病気になったら、感謝が足りないんだなと気が付けばいいんですが、それに気が付かずに、薬とか何かで治そうというから間違ってくるんです。本当に感謝するということが一番大切なことなのです。
(p.180-187)


本当に生きるとは

― そういえば、お年寄りの方の自殺が非常に多いという話もききますね。
これも戦後の悪弊で、ひとつに人間は自分で生きているという考えになってしまってから、こういう自殺というのも増えているんですね。生かされているということを忘れてしまったんでしょう。才能に恵まれた人が自殺をする例が非常に多い。

<中略>

戦後、老人の自殺が多いというのそれですね。自分のことだけ考える。世の中の幸せのために生きるとか、そういうものがなくなってしまった。そうすると、行き詰ってしまうんですね。人間というのはそうではなくて、いつも言うように、神を認め、神をたたえなければいけない。それは人間に対しても同様で、人のいいところを認めてあげてほめるというのが、人の本来の生き方なんです。それなのに逆をやるようになってしまったから、しまいに人生に行き詰まりを感じるわけでしょう。

しかし、神を認めるということに行き詰るということはない。永遠に行き詰まりというのはないわけです。だから、人生に行き詰まりというのはないわけです。自分のことを考えると行き詰りになってしまうんです。

― 自分のことだけ考えていると行き詰ってしまうと。

ええ。だからそうではなくて、人を喜ばせることを考えれば、行き詰りということはないでしょう。一生懸命に働くというのは、外国では労働だけれども、日本語は「はた」を「らく」にする。周りを楽しませるというのが働くということです。これはすごいことだと思うんです。自分のために働くから、行き詰ってしまうんです。そうではなくて、人を喜ばせるためだったら、行き詰りというのはない。どれだけの人を喜ばせたら終わりというのではなくて、対象は無限でしょう。そうすると、自殺なんかしていられなくなるわけ(笑)。
(p.211-213)

--------引用終了----------

2008年9月25日木曜日

息を吐く

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最近、

『鍼を打つ人竹村文近-心とからだ、目覚めへの旅-』 金沢 英子 集英社 2004

という本を読んで、なるほどなと思うことがありました。それは、

ここぞというときには息を吐く

というものです。鍼灸師の竹村氏はよく腰痛の人を見るそうですが、ピアノを弾くにしても、写真を撮るにしても、とにかくここ一番という肝心な時に息を止めて力むと、一時的には力がでるものの、身体がその衝撃をもろに受けることにによって腰痛になるといっていました。

だから腰痛で来院する多くのひとには、ここぞというときは息を吐き、エネルギーを流すように指導しているそうです。そうすると、身体にいいばかりか仕事自体もいい方向に変わっていくそうです。

なるほどと思い、私も日常生活の中で力まなければならない場面でこれを応用してみました。息を吐くと確かに奥歯をくいしばって息を止めるときよりも力はでないような気がしますが、身体に負荷がかからない分楽で、続けられる感じがしました。

また力んで何かをやるというのは、小我でものごとをどこか強引に成し遂げるという感覚であるのに対して、息を吐きながら力まずにするというのは、小我を超えた大きな力、大きな流れみたいなものとひとつになってことが運ぶという気がするのです。

力む=息を止める=我でものごとを押し進める ⇔
力まない=息を吐く=大きな力を利用する

というこの三点はどこかでつながっているような気がします。またこれと関連していると思われるのが、鉢巻をまくのと帯をまくことの違いです。

鉢巻をまくのも、ここ一番という場面だろうと思いますが、気が上に上ってしまって落ち着かなくなるような感覚があるのに対して、武道などで丹田のあたりに帯をまくのは、気を引き締めつつも落ち着いて全体を見渡せるような気がします。

この二つは一時しのぎの力を出すために息を止めることと、息を吐いてリラックスして事に当たることと対応している気がします。

皆さんはどう思われますでしょうか。力を出さなければならない場面がありましたら、是非試してみてください。

2008年9月24日水曜日

パトリック・ハーラン氏

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右の写真は、、、

言わずと知れたお笑いコンビ、パックンマックンのパックンことパトリック・ハーラン氏です。

私は毎週欠かさず

NHK英語でしゃべらナイト

を見ているのですが、前回と今回は出演者のパックンがアメリカの故郷に帰るという

パックン里帰りSP in コロラド

という内容でした。

ご存じの方も多いかと思いますが、パックンはハーバード大卒です。アメリカでハーバード卒というとたいていまず聞かれるのが、「家、お金持なの?」だそうです。
というのも、私立で学費がそれなりにかかるという事と同時に、ハーバードやイェールなどのような私立は、1000万円ほどを大学に寄付することによっても入学できるからです。アメリカでは、お金があることもある意味そのひとのもって生まれた能力として評価するそうです。

そういうこともあって、私はパックンもアメリカの裕福な家庭で育ったボンボンなんだろうなぁと思っていました。
しかし事実はまったくの逆でした、、、。

彼の家庭は幼いころに両親が離婚していたので、パックンは母親との二人暮らし、家計を支えるためもあって9歳のころから高校卒業までずっと新聞配達のバイトをしていたそうです。9年間ですよ。

番組の中で、パックンはその時に使っていた自転車と新聞を配る為のバックを笑いながら懐かしそうに紹介していました。

また高校には卒業時の一番優秀な生徒の写真が代々飾られるそうなのですが、パックンの写真もその中にあり、先生いわく、ハーバードに行ったのはその高校始まって以来の快挙だったそうです。

学生時代の苦労話はまったくありませんでしたが、貧しい中でバイトをしながらも常に勉学に励み、成績はトップだったのでしょう。

また現在もそのような苦労を微塵も感じさせない明るさで人を笑わせているというのが本当に人間ができているというか、すごいの一言に尽きると思います。

アメリカの裕福な家庭に育ったボンボンが日本に来てお笑いをやっていたのかと思いきや、実は
道徳の本にでてきてもおかしくないようなとても立派な人物
だったのです。

人を見た目や先入観で判断しちゃだめですよね。ホント今回はこのことを痛感させられました。反省ひとしきりです。


パックンがんばれぇーー!



参考:

NHK英語でしゃべらナイト
パックン里帰りSP in コロラド



2008年9月18日木曜日

ダニオン・ブリンクリー氏とその予言⑤

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ダニオンのインタヴューの後半を載せておきます。
ところで元の英文のHPを見つけたのでアドレスを付しておきます。

http://www.inlightimes.com/archives/2005/01/f1.htm

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TM:あなたのおっしゃる「7つの真実」の二つ目には次のようにあります。「私たちは‘一なるものから発するひとつの力’(a Force of One)として、ここに来ることを選択する。人類により良い変化をもたらすために。真の変化をもたらす力があることを知って。」では、第三世界の国々に住んで餓えや病気に苦しんでいる人々をどう思われますか、、、彼らはどのようにして真の変化をもたらしているのでしょうか?

ダニオン:我々はすべて、人生におけるあるサイクルを経験します。あなたは病気や餓えで苦しんでいる人たちに対して当惑を感じ、質問している訳ですが、まさにそのことによって、彼らはすでにあなたの人生を変える最初の一歩を踏み出したことになるのです。そしておそらくこれが、彼らの個人的な使命におけるもっとも重要なことなのです。私は自分がすべてを知っているかのように振る舞うつもりはありません。私は確かに、なぜ苦しみが存在するかについて、その理由をすべて説明できるわけではありません。しかしそれは、我々の内に思いやりというスピリチュアルな意識を生みだすための一部としてデザインされているのだと私は確信しています。

AP:あなたは本の中で、4つの力の道(the Four-fold Path of Power)について書いていますね。祈り、信念、選択、愛(prayer, belief, choice and love)という四つですが、中でもとりわけ、がすべてを克服することのできる最高の力であると述べています。あなたが人生の中で、どのようにして偉大な力としての愛を知るようになったのか、具体的に教えてもらえませんか?

ダニオン:もし我々すべてが4つの道にそって生きようとするなら、自らを開いて、肉体をもったまま私が天国と呼ぶ霊的な場所を体験することができます。量子物理学は、原子が生命を形づくる基本構造であることを告げています。その原子は94.6%が空の空間で、そこには量子物理学がダーク・マター(暗黒物質)と呼んでいるもので満ちています。このダーク・マターの中で、惑星はつり合い、宇宙はまとまりをもち、安定を保っているのです。ダーク・マターというのはルーク・スカイウォーカーがフォースと呼んでいるものです。それを私は愛と呼びます。私が死に移行しつつある人のそばで目撃してきた愛は、私の人生に最大のインパクトをもたらしたものです。

1997年私は「思いやりの行為 トワイラト団」(Compassion in Action/The Twilight Brigade)を創設しました。この非営利の、人生の終末期を支援するボランティア団体は、退役軍人の方々がこの世からあの世へと移行する手助けすることを目的としています。我々は、誰ひとりとして孤独に死んで行く必要はないと思っています。 私個人としては、1万6千時間以上をベッドサイドで過ごし、349人の最後を看取ってきました。私が死を共にした退役軍人の方々の多くは、何ヶ月も病院のベッドに横になっていながら、他に誰一人として彼らを見舞いにくる者はいませんでした。私はまったくの赤の他人でしたが、ただ一つのテーマを携えて彼らを訪問していました。それは、彼らが国に仕え、自由を守ってくれた努力に対して、有難うという私の感謝の気持ちを伝えるということです。 その瞬間、これらの勇気のある人たちがどんな道をたどってきたかに関係なく、彼らは自分達の人生には力と目的があったことを知るのです。その瞬間以上に愛が強力になることはありません。まさにその瞬間、自分は神がお創りになった独自なる存在の一人であることを知るのです。

TM: 本の最終章のタイトルは、「最後のヴィジョン」(The Final Vision)となっています。天国を最初に旅した最中とその後に受け取ったヴィジョンを書いておられますね。これらのヴィジョンは、かなり見通しが暗く、驚くべき内容となっています。あなたは、来るべき世界にもっとも広がっている脅威は何だと感じていますか。

ダニオン:恐れです!我々の行使しうる力を、恐れの力に委ね、気力を萎えさせてしまうことは、人類にとっての最大の脅威なのです。私は、いくつかの憂慮すべき事態が起こるだろうことを書いたことは認めます。しかしそれらは大きな計画全体にとって必要な出来事なのです。 それらの出来事は、地球と人類、両方の進化を促すために計画されているのです。つまり、いつか気づくことでしょうが、我々は多次元の中に同時に生きており、宇宙における存在は我々だけではないということです。しかしこのことは何も恐れることではないのです。これらのことが、我々を脅かすことはないのです。彼らは我々が意識していなくても、調和をとって我々とともにずっと共存してきました。

繰り返しになりますが、我々にとっての最大の脅威は、恐れなのです。 恐れこそが、我々の自由を損なわせている根源なのです。死に対する恐れ、テロに対する恐れ、経済的な保証の無いこと、不安定であることに対する恐れ、これらすべてが我々の生活に対する精神的、肉体的なコントロールを手放してしまう原因となっているのです。恐れの種から、我々は一つの国家の意志を育み、宗教に対する民主主義の優位を示すために、子どもたちを遠く離れた砂漠に送り込み、彼らを死に追いやっているのです。 我々がこういった盲目的な恐れすべてを、力強い愛の光で置き換えるまでは、自分たちの力を政府や宗教、社会制度にゆだねてしまうという不利を背負って生きつづけることになります。私が学んできたのは、我々が様々な点であの世を恐れているために、人生における、いま、ここの大切さを見過ごしてきたとうことです。ヴェールで隔てられたこちら側の生活は、すべての点において天国での生活と同じくらい重要で、両者とも神聖な計画が展開していく事に関わっています。我々は死に対する恐怖をなくさなければなりません。そもそもそんなものは存在しないのだから。

私は死んで、天国を訪れました。私がこの世に送り返されたのは、自分が直接体験した死後の生命存続に関する知識を、地上の人たちと共有するという明快な目的によるものだと確信しています。あの世での生活は、光に満ちていて、成長と美と喜ばしい驚きに満ち溢れています。もしこの本が何かを伝えているとするなら、次のようなものであってほしいと思います。死というものは存在しない。すでにこの世を旅立った父、母、子どもたちが、あの世で楽しく、安全に、とても生き生きと暮らしているということを私たちは理解しなければならない。いのちに終わりはなく、愛はすべてにいきわたっている

TM&AP:ありがとう、ダニオン。あなたの率直な見解と、たいへんオープンに話しができたことに感謝します。そして待望の本の出版、おめでとう。

ダニオン:どういたしまして。この機会を設けていただいて、ありがとう。

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これで一応ダニオンの予言シリーズを終わりにしたいと思います。
興味のある方は是非二冊の邦訳を読んでみてください。

また三冊目の未邦訳の本を日本語で読んでみたい方は、私の訳で良ければワードに落とした全訳があるので、言って頂ければメールに添付してお送りします。
(私のアドレスは、mshikonのあとにアットマークを入れgmail.comで届きます。)

2008年9月16日火曜日

ダニオン・ブリンクリー氏とその予言④

以下にダニオン氏が三冊目の本を出版したおりに受けたインタヴュー

Interview with Dannion :The Secrets of the Light

の前半を載せておきます。
(私の訳であることに御留意下さい。また元の英文のHPが削除されていたので、いまはこのインタヴューがどこにあるのかは不明です。)

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「死なんて流行りませんけど、それは私に関しても同じです」
ダニオン・ブリンクリーはそう語る。彼は、『未来からの生還』(原題:Saved by the Light)と『続 未来からの生還』(原題:At Peace in the Light)を書いた国際的なベストセラー作家である。

「映画、テレビ、本、雑誌とこのところどこを見ても、死の瞬間、死、そしてあの世に関する神秘的なことがらに多くの人が魅せられている。こういったことすべては、死について知りたいという願望の表れだと思います。」

1975年、ダニオンは、3回のうちの最初となる臨死体験をした。当時25歳で、電話をかけている最中に雷に打たれ、28分にわたって‘あの世’にいた。

天国への訪問の間に、ダニオンは来るべき世界に関する100以上のヴィジョンを見せられた。そして天国で与えられた使命を達成すべく、この世に戻されたのだ。最初の二冊の本は、あの世への驚くべき旅と、その後のひどい後遺症の中にあったダニオンの生活を時間軸にそって見事に著したものである。

ダニオンは天国の素晴らしさを体験していたが、臨死体験から帰還し、雷で重症を負い黒こげとなった体に戻らなければならなかった。彼が再びひとりで歩き、食事ができるようになるまで2年の歳月を要した。ダニオンは回復して力を取り戻すと、介護ボランティアになることを誓った。

まず初めに、介護施設で奉仕活動に精を出し、最終的には、ホスピスのボランティアとなった。1997年、ダニオンは共同で、全国的なボランティア組織「思いやりの行為 トワイライト団」(Compassion in Action/The Twilight Brigade)を見事に創設した。

ダニオンは8年間新しい本を書いてこなかったが、今回の本の出版は、スピリチュアル文学の膨大な蔵書に、あらたな古典を追加することとなるだろう。『光の秘密:この世とあの世に力強く生きるスピリチュアル的戦略(仮題)』(The Secrets of the Light:Spiritual Strategies to Empower your Life,,,Here and in the Hereafter)は、死の幻想を追いやり、生命の神秘を発見することを求める、すべてのスピリチュアルな道を探究する者にとっての必読の書である。

1994年、『未来からの生還』の出版にともなって、イン・ライト・タイムスはダニオンとの3回のうちの最初のインタビューを行なった。この3回すべてのインタビューを行なったのがキャサリン・ピーターズで、彼女はダニオンをとても魅力的で知的かつ愉快な男性と見ていた。今やキャサリンは、魂をゆり動かされたこの男と幸せな結婚をしている。

1998年以来、ダニオンはイン・ライト・タイムス社の顧問を務めてきた。我が出版社の親しい友人として、我々は誇りをもって、臨死体験の第一人者ダニオン・ブリンクリーを迎え、ラス・ヴェガスで行なわれたこのインタビューを紹介する。


トーマス&アリシア


TM:ブリンクリーさん、あなたのベストセラーとなった本、『未来からの生還』(Saved by the Light)は1994年の出版でした。それから間もない95年に『続 未来からの生還』(At Peace in the Light)を出版されました。光の三部作の最後となる『光の秘密(仮題)』(The Secrets of the Light)を書き上げ、出版するのにどうしてこんなにも長くかかったのか教えていただけませんか?

ダニオン:いい質問ですね。でもトーマス、どうかダニオンと呼んで下さい。正直なところ、私は作家になろうと思って書き始めたわけではないのです。当時の私の心にはあったのはただひとつのことで、それに夢中になっていたのです。それは聖なるヴィジョンを遂行するということです。それを達成する過程で、『未来からの生還』を書き、この本によって私は一躍有名になってしまいました。その後『続 未来からの生還』が出版されたときは、私の精神的な探求はトップギアーに入っている状態でした。もちろん、これら二冊の本が成功したあとで、出版社は私に新しい本を書くことを要請してきました。私はただ、それまでに書いたことに新たに付け加えることなど何もないと感じていたのです。

しかし、1997年にすべてが急変したのです。イン・ライト・タイムスの「ダイ・ハード」(die-hard)の読者は覚えているかもしれませんが、私はその年ロサンジェルスでアトランタ行きの飛行機に乗りました。飛行中、前頭葉の右側の三箇所に脳内出血が起きてしまったのです。すぐに5時間に及ぶ脳手術を受け、41時間後には意識が回復したのですが、その後、心臓麻痺によるてんかん発作に見舞われました。

信じて貰いたいのですが、この危機をなんとか生き抜いたことで、私の人生は本当に生まれ変わったのです。さらに重要なことなんですが、脳手術の間に経験した恐ろしい臨死体験が、次の物語りとなるのです。この出来事は、私が新たに本を書くために計画されたことを知りました。ご存知の通り、まったく対照的なんですが、雷に打たれたあとで起こった臨死体験は、想像の域を超えた、信じられないほど美しいものでした。

(二回目の臨死体験をした)開胸手術の間においても、私は再び生の向こう側の世界を旅し、天国の完璧さをより深いレベルまで目撃することになりました。しかし、三回目の臨死体験に対しては、まったく準備が出来ていなかったのです。自分が見たことを伝えなければならないことは分かってはいたのですが、人を恐れさせることなく、どうやって伝えたらいいのかわからなかったのです。妻のキャサリンが、それをポジティヴでよく練られた構想のもとに押し出すのを手伝ってくれるまで、私は何年も作家の直面する堅固な壁と、みじめな戦いを繰り広げていました。

AP:ダニオン、あなたは自分が2004年を越して生きることが出来ないと思っているという噂がありますが、あきらかに、あなたはいまここにいます。これは、あなたがミッションを完結していないからなのですか、それともキャサリンとの結婚によってあなたの運命が書きかえられたのでしょうか?

ダニオン:私にとって、2004年に死ぬかどうかはまったく問題ではなかったのです。私はただ、受け取っていたヴィジョンの中で、2004年以降、自分が活動的に関わっている様子がなかったということなんです。そこで、ヴィジョンのなかで自分の姿がなかったことから、私はもはや生きてはいないだろうと、総合的に判断したわけです。正直言って、そういった同じ質問に何度も何度も答えることでへとへとになっていました。

それで人に言わせるがまま、信じるがままにさせていたのです。私の人生における妻キャサリンの影響ですが、それはまったく信じられないほどドラマチックで素晴らしいものです。実際、彼女が世話好きで配慮の行き届いた素晴らしい女性でなかったら、このインタヴューもなかったかもしれません。というのも最近、私はかなり深刻な健康問題を抱えていて、キャサリンは、私がすべてのことを中止して、適切な治療を受けるべきだと強く主張していたのです。実際のところ、彼女が正しかったのです。私は体調が変化しつつあることを感じていましたし、実際かなり弱ってきていました。ある種の生命力が私の中から抜け出して行くような感じでした。

もしこれが、キャサリンと彼女の6人の子供たちを好きになる以前なら、この状態に関して、自分が死につつあることを意味するのかどうかなど気にもしなかったでしょう。おそらく、死んでしまうまで自分を追いこんだだろうと思います。私は自分とミッションのことについてしか関心がなかったのです。彼らが現われるまではね。しかし今や、彼らを深く愛しているので、生きようとする意志が強くなって、自分の健康にも気を使うようになりました。

TM:夫婦として本を書くことが、ご自身の作風、思考のプロセス、創造的なアイデアにどのような影響を与えたと思われますか?私は他の二冊の本に比べて、今回の本は表現の仕方や文の構成に大きな違いを感じますが。

ダニオン:私は常に一緒に書いてくれる人が必要なんです。私はすぐに気が散ってしまう性格なんで。(妻は私をADHDだといっていますが。)ポール・ペリーは最初の本の素晴らしい共著者でした。しかしキャサリンと一緒に書くと、まったく新しい作風が展開しました。我々は、二人で親しげな会話をしているような感じで本を書きます。我々が意識的にそうしているかどうかに関わらず、この本にはいくつもそういった箇所があります。

この企画の結果として、我々の絆がいっそう強まったと感じています。キャサリンは、頭がよくて美しいというだけでなく、いままで会ったなかで最高の言葉の使い手なのです。私は彼女の作家としての技量を高く買ってますし、彼女のライフパートナーとしての資質を信頼しているので、この本のなかでは、以前よりも自分をはるかにオープンに、素直に出すことが出来ました。我々がともに作業することで、この本に自分のユーモアの感覚をうまくのせることができたという点もたいへん気に入ってます。私は、自分の最大の長所のひとつは、事態が最悪の状態にあったとしても人を笑わすことのできる能力にあると思っています。

AP:あなたが過去数十年にわたってしてきたことを織物として見た場合、その全体に織り込まれている主要な糸は、「私たちはすべて、力に満ち溢れた霊的な存在である」というテーマにありました。もし世界全体が突然このことに気づいたとしたら、いったいどんなことが起こると思われますか?我々がより偉大な存在へと変化するのか、あるいは、尊大さが人類を滅亡へと追いやってしまうのでしょうか?

ダニオン:今回の『光の秘密(仮題)』のなかで書いたことは、もし我々すべてが4つの道(the Four-fold path)にそって生きようとするなら、我々は自らを開放し、肉体をもったまま私が天国と呼ぶ霊的な領域を経験できるということです。私は新しい本のなかでも繰り返し、「私たちは力に満ち溢れた霊的な存在である」という事実にふれています。読者がこの神聖な視点から自分たちを見ることができるように、我々は‘7つの真実(The Seven Truths)’という霊的な自己評価システムを作りました。それらの真実が人生に対する7つの視点を提供することで、私たちは通常とらわれている自己や二元論といった信念を超えて、自らの永遠性に霊的フォーカスを合わせられるようになるのです。

我々は、最終的な第9段階に向けて、現在、第4から第5段階へと移行しつつあり、この中で今大事になってきているのは、我々はすべてのものとつながっているという感覚です。量子力学は、二極対立のパラダイムから、一なる意識という世界観(a state of conscious oneness)への移行を促しています。この移行が顕在化してくるのが2008年から2012年の間で、この意識による統一場(unified field of consciousness)という考えは、次第に我々の日常の現実においてあたりまえのこととなってくることでしょう。

キャサリンと私は、人々が心を開いて、彼らの内なる永遠のたましいにふれることができるような実践的なツールをデザインしようと努めてきました。多くの人は、自身が多次元的な存在であることに次第に気づき始めていながら、同時にエネルギー的に固着したままでいます。この先の混乱期全般にわたって、我々は変革にともなう激変に耐えなければなりません。私の個人的な見解ですが、我々が直面しようとしている変化の最終的な結末は、ポジティヴで力を取り戻すものとなるだろうということです。というのは、それらの出来事が我々の内なる偉大さを明かす手助けをするからです。

--------《次回につづく》------------

参考・・・
4つの(力の)道とは、祈り、選択、信念、愛であり、

7つの真実とは人間における霊的な原理をまとめた以下の7つです。

第一の真実

私たちは、力に満ちあふれた偉大な霊的存在、光の存在であり、気高さと思いやりと目的をもって物質世界に生きている。

第二の真実

私たちは‘一なるものから発するひとつの力’(a Force of One)として、ここに来ることを選択する。人類により良い変化をもたらすために。真の変化をもたらす力があることを知って。私たち一人ひとりは、人生に、出来るだけ多くの困難や障害を計画した。困難を乗りきる様々な選択肢と可能性を用意して。友よ、次のことを覚えておいて欲しい。ただ静かな海を航海しているだけでは、偉大な海のキャプテンになることはできない、、、。だから誇りを持って欲しい。あなた方の多くは、冬の北大西洋や台風シーズンの南シナ海での航海を選択したのだ!

第三の真実

私たちは選ばれてここに来た。それはすなわち、偉大にして、神聖なる無限の愛の力が、私たちがこの世で達成すべき目的をやり遂げるだろうと信じてくれているということである。私たちは、一人ひとりが信仰している神の名のもとに、これを成し遂げることだろう。多くの者は、この人生の使命を立派にやりとげるとだろう。

第四の真実

私たちはみな、たくさんの才能や資質をもっている。人生において重要なことは、これらの資質のもっとも賢い使い方を見出だし、発展させていくことにある。そうすることによって、私たちはこの世に善をなすための最大の潜在的可能性を発揮させることができるのである。

第五の真実

私たちは歴史における、この時代、この場所、この時に生きることを自ら選んだ。私たちはいまだかつて、自分の力や存在を余すことなく示すことのできるこのような素晴らしい機会に巡りあったことはない。次のことを考えてみよう。誰かが贈りものをしてくれたとする。私たちはそれをプレゼントと呼ぶ。今日、私たちに与えられているプレゼントは、今である。私たちは変化をもたらすことができる。このことをしっかりと認識するための瞬間、それが今である。(※プレゼント(present)には贈り物と現在という意味がある(訳注))


第六の真実

私たちはこの世に来る前に、ある世界にいた。そこは美しく、安全で、慈しみにあふれていた。その世界において、私たちは愛され、大切にされ、かけがえのない存在とみなされる。これがかの世界の本質である。


第七の真実

この世のあとには、あの世が存在する。実際のところ、あの世とは、私たちがこの世に来るために去ってきた場所である。私たちがこの世に来たのは、独自なる神の御印としてである。この神の御印が、どのように、そしてなぜ私たちの独自なる運命なのか、このことに対する理解のみを私たちは次の世界へ持ち込むことができる。